大正12年の日本には既にビーチパラソル文化が入ってきていた。7月12日付『都新聞』、写真は白木屋呉服店での展示(海の旅行展覧会)の様子で、記事は「海岸傘」という直訳を前面に出して紹介している。
アンパンマンがジャムおじさんを「(パン)パパ」と呼んでいたり、アンパンマンが弟を作ってくれとせがんで生まれたのがカレーパンマンだったり、しょくぱんまんは前説なく登場し、ばいきんまんは登場第一回のみ造形が違う。
帝農商社「ミカド式氷削機械」(“これからの金儲は新案特許の氷削機”)、中陽商店「鳥羽式氷削機」(“氷と金儲”)、富田鉄工所「富田式氷削機」(“昭和記念新型”)、石樫農機製作所「氷削機」。そして全て大阪市のメーカという共通点がある。そう、昭和7年のクレーンゲーム機広告と全く同構図なのだ!
明治43年8月4日付『神戸新聞』、「音なしい上品な、乗心地の快い」ゴム輪の人力車の登場により、旧来型の人力車は車も車夫も利用する客も肩身が狭くなった様子を戯画化している。
探して見つかる記事ではなく泣く(笑)大正7年7月7日付『都新聞』に日本のスワンボート史を埋める記事を見つけた。東京府立工芸学校でスワンと亀の舟を作り進水式を行ったとある。「これから各地の海水浴場では一種の玩具として歓迎されるであらう」とあり同校がどのような役割を果たしたか気になる。
大正5年10月9日付『日出新聞』に旅行中のアメリカ人が四年前に置いていったとして横浜の税関に保管されていたエジプトのミイラが競売にかかったという話が載っていた。あいにく買い手がつかず、神奈川県女子師範学校に寄付したとある。このミイラはその後どうなったのだろう。
明治37年11月13日付『中京新報』に加藤氏による出征軍人への睾丸袋寄贈運動の仔細が出ていた。作り方の最後に「唐辛一個を入る」とある。必要に応じ型紙と現品も貸してくれたらしい。原料あるいは費用だけ寄贈した場合は「篤志婦人幷ニ女学校生徒に裁縫方を依頼す」としていた。睾丸袋を縫ってくれと…
大正7年8月2日付『都新聞』、幽霊が出るから借家の家賃を安くしていたという事例がこうして活字で確認できることに妙な感動を覚えた(笑) https://t.co/YHULmG6MRZ