明治43年7月26日付『横浜貿易新報』、狂仙「御殿場より/奇抜な広告」なる記事に「棄てられた野の石は『咳止飴』の広告を白く塗られてある」とあるのは、大正5年の『都新聞』で富士山の至る所にあると指摘された屋外広告と同じものだろう。白ペンキで路傍の石に描き付けたようだ。探せば写真があるか。 
   ♪富〜士は日本一のや…まではなかった時代、昭和3年の尋常小学国語読本(3年生用)の写真を発掘した。「富士山は六番目だ」の欄外に、先生が持ち主だった生徒に語って聞かせたのだろうか、一番の新高山と六番の富士山の間の山々がメモしてある。 
   大正6年当時、両国国技館での菊人形興行で使う菊は毎年2000円(4000万ぐらいか)をかけて渋谷で栽培していたという。国技館が大正6年11月の火災で焼失したため、新国技館をどうするかという大正7年1月5日付『都新聞』の記事中で菊人形の今後について言及されていた。 
   甲府の穴切遊廓での張見世廃止、写真見世の導入について伝える。大正14年2月9日付『都新聞』、反対派からの妨害だったのか、写真をインクで汚す輩が現れたため楼主たちが交替で見張りを務めたという。 
   「電気燈」とかけてお染久松と解く 心は油屋の迷惑(油不要の電灯は油屋には目の敵、心中事件を起こすお染久松は油屋の娘と丁稚)、明治36年1月14日付『京都日出新聞』 https://t.co/tiDWNrX0ry 
   佐藤清彦『おなら考』が(結論として)おならが禁止されていたという訳ではないことをとうの昔に確認していた(笑)さすがでござる。という訳で、あの3択問題は残念ながら成立しておらんのでは、というのが妥当な見解かしらん  https://t.co/B98qe2kmbx