道と天はきちんと分けられている気はする。曹操も蒼天に道を求めていた。この太平清領書の如く、天において理によって形にされたものが「道」で、それは天自体ではない、ということかな。(だから道を明確にしたら侠ではない)
当代Kの一人がかつてのKたちのように世界を股にかけるようになっていたなら話は別だったろうけれど、一人は裏K家の者であることをやめることはなかった。言い換えると、僻地医療者であることをやめることはなかった。
定番史料の1712年成立『和漢三才図会』(第百五巻)によると、「按蒸餠即饅頭無餡者也、阿蘭陀人毎用㆓一箇㆒為㆓常食㆒彼人呼曰㆓波牟 / 按ずるに〔※前置き定型句〕蒸餠即ち饅頭に餡無きものは、阿蘭陀人つねに一箇を用いて常食となし、彼の人呼んで波牟(ハン)と曰う」。 https://t.co/SrRXtIqQ3I
しかし今回のサンキューピッチ、やはり「小堀は根本的な領域では人間の情が分からないんだな……」感あふれつつ、でも竹内や広瀬はそれが分かった上でそれでもいいと、小堀がこのチームや野球にまつわる何かに真摯で本気なこと自体は確かで、託すに足る、と認めているというのが分かるのがいいよね。
というかこのイヴァノバの登場時のスピード感がやばく、流石さいとうプロと思わせてくれる。水戸黄門並だ。妹の棺桶を開けて妹の敵討ちを誓うシーンでごく自然に棺桶の蓋を破壊するんじゃないよ。
今思えば、栗田ゆう子のラーメン屋評、ただの一人飯誹謗であって別にラーメン誹謗ではないな……冷静に考えたらこの「異常性」は当時でも、牛丼屋でもなんでもスタンド系の一人食店ならあらかた当てはまった筈で、ラーメンが「専門店」を社会ブーム規模で生み出して雁屋哲の目に止まっただけだろうし。
啓蒙スピリッツの文脈でいえば、このコマは啓蒙的理性はオベンキョウで一番になることとは関係ないという象徴的なコマだと言えます https://t.co/TlofOOzcJf