トルメキアではヴ王の死とともにクシャナが「王道」への決意を固め、土鬼ではシュワ消滅とともに神聖皇帝なき国作りへ皆が向き合うようになり、ミトや蟲使いたちは旅の終わりを迎え、アスベルはケチャとボーイミーツガール…正にナウシカを囲んで踊るがごとき大団円です。 
   サンデル教授の #実力も運のうち で強調される能力至上主義の弊害を考える上で示唆的なのがF先生の「ドラえもん のび太と鉄人兵団」に出てくる、プロトタイプロボに設定された「競争本能」で、少しでも秀でようとする佳き動機が(続く) 
   今週の #逃げ上手の若君 、再び時行君一行「逃若党」ファミリーが増えそうなフラグが立ちました。この人材吸引力が若様の強みか…そして最大の見どころ、解説コーナーにて「当地行」のキーワード、頂きました!ここから次は是非安堵の仕組み解説へ(以下略 
   本日のツッコミどころ。人の域を「超えようとしている」…?(どう見てもここにいる全員、既にヒトを辞めて異能を極めているのに)
#逃げ上手の若君 
   更に言いかえれば、「能力の専制」への反発とは、「秀でた能力が無くても真っ当に生きられる権利」「不健康で非文化的に生きる権利」を求める声であり、能力研鑽と競争「だけ」をずっと強いられるのはしんどいという声である。みんな5000兆円欲しいし、人生息抜きがあってなんぼなのである。 
   即ち、ナウシカが墓所の計画を否定・破壊することで、十中八九人類は浄化世界に適合できず、腐海とともに滅びることになります(人類の汚染耐性も腐海による浄化も人工であり、浄化適合も人工で行わねば間に合わない)。 
   というのも、ここまでの旅路でナウシカは常に「正義の所在」を問い続ける存在でした。マニ僧正に、上人に、クシャナや神聖皇帝たち、更にはおのが虚無にまで「本当に他にもう道はないのか?」と。 
   そう、意外にもナウシカはその旅路において、自らを正義と名乗ったことはないのです(周囲がどう見るかはまた別ですが)。宿営地での土鬼難民への説得もあくまで提案ーそれも具体政策というよりは理念のーでした。 
   ところが、墓所でのナウシカはそれまでとうってかわり、己が信念を真っ向から墓所にぶつけ、また墓所の思想と存在をも否定していきます。明言こそされませんが、この場面のナウシカはまさに「正義を名乗っている」のです。 
   この意味において、墓所でのナウシカが正義を自ら体現するかのような言動を取るのは危うくないか、或いはその正しさを誰が担保できるのか、という疑念はどうしても出てきてしまうのではないでしょうか。 
   更にその前、7巻198頁の、墓所を「死を否定する、変われない存在」と断罪する頁も書き下ろしとなります。実はこの頁は、「生きることは変わること」と明言することで、不変の存在たる墓所の「生物性」も暗に否定しているものとなります。 
   そして「生物表現の削除」は連載版からの場面・台詞修正となって現れます。即ち、連載版では墓所は自らの「心臓」を「暗黒の中の唯一の光」といい、これに対しナウシカは「肉腫としみだらけのあわれな光ゴケ」「死ぬことも生きることもできない生き物」と返しています。