この場面は寧ろ、ナウシカの姿に自らの古い土着信仰(と腐海・生命への不可侵性)への確信を得た僧正が皇帝と僧会への反逆ー腐海生命の軍事利用への抵抗ーを決意したことの方が重要といえます。
そうした庭園/牧人の「優しさ」表現への拘りも連載版→単行本版では感じられます。例えば牧人に一環して敵意を向けるセルムすら、連載版での「もう次の付け入る隙を見つけた」といった、邪悪感満載の台詞は修正されています。
この点を解く鍵が五巻冒頭にあります。皇弟ミラルパ重篤の間を突いてヒドラ復活・巨神兵培養と不穏な動きを見せる皇兄ナムリスに対し、ミラルパ派の僧会幹部が「先帝様のご禁令」として諌止しようとするのです。
更に言えば、ナウシカ達の時代の人類や動物は全て、(恐らく「火の7日間」前に)汚染耐性付与等の改変を受けており、こうした一環として「超常の力」も広く付与された…と考えることができそうです。ではそれは何のためなのでしょうか?
この毒殺未遂事件ですが、ある祝宴に際しヴ王から振る舞われた「祝いの杯」に盛られた毒をクシャナ母が身代わりになり受けた結果、狂気に陥り人形をクシャナと思い込むようになった、というものでした。
ナムリスは弟ミラルパ統治の百年を肉体崩壊のリスクすらある「数十回の手術」の恐怖に耐えて乗り越え、土鬼大海嘯による混乱という僅かな隙を突いて実権を奪取、ほぼ徒手空拳で表舞台に踊り出した「忍従の人」です。そんな彼が、たかが首一つになったくらい(!)で「生き飽きて」しまうのでしょうか。
その鍵になるのが次代ミラルパの治世です。兄ナムリス曰く、最初の二十年は慈悲深い名君だったミラルパは、いつまでも愚かな土民を憎むようになったといいます。ということは、帝国誕生ら百数十年を経てなお、初代皇帝の悲願たる民衆救済は実現できていない(或いは既に喪われた)ことになります。
更に漫画版、土鬼大海嘯のクライマックスでは、王蟲が人造粘菌を腐海に迎え入れるために自ら進んで苗床となり、粘菌に喰われていくという、王蟲のいたわりと友愛を示す場面が描かれます。が、ここで少し疑問が生じます。
この「墓所の虚無」はミラルパのような墜ちた(普通の)為政者=眼の前に現実に絶望したがそれでも救済の理想を捨てきれない者には極めて相性が良い一方、刹那的に生きるナムリスにとっては最悪と言えます。だからこそ彼が吐き捨てるように「生き飽きた」と呟くことに重みがあると言えます。
無論、王蟲も怒りに我を忘れて暴走することはありますが、酸の湖の例にみるように、目的を果たせば怒りから醒めるのも割と早いことが伺われます。即ち、仮にエフタル大海嘯が怒りゆえとして、なにゆえ或いは何を求めて2000リーグも突進したのかが問題になるわけです。