これをクシャナに置き換えれば、たとえ心持ちではナウシカと同じに全くなれずとも、カボの時のように憎悪を捨てた「振舞い」は出来たではないか。まずはそこからで良いではないか、となるでしょうか。
何となればまだナウシカは「帝国の敵」ですから。実際チヤルカは一度彼女を手に掛けようとします。が、チククに制せられるまでもなくその手は止まります。耳飾りー彼女が土鬼の孤児の身を案じてサジュ族の女性に託したものーの跡を見て。そんなことをする者が本当に「手にかけるべき敵」なのか?と
こうした「白い翼の使徒」信仰が持つ、皇帝権力との対立を避ける志向は、この信仰に厭世的・彼岸的傾向を強めさせた戸考えられます。事実、大海嘯に絶望した民衆は使徒=ナウシカを極楽浄土への案内人、「死の天使」と見ていました。
こうした迷走、場当たり的行動のツケが回ったのが7巻の難民宿営地での衝突でした。この事件の発端はクシャナ側の不用意な行動=休戦もせずにシュワに行くフネを土鬼側から借りようとしたことであり、慎重に行動すれば(チヤルカに根回しするなど)回避できた衝突でした。
一方、ナウシカは腐海「を含む」広く世界を愛し、また様々な試練を経てきたこともあり、たとえ人造由来でもその「偉大さ」を否定しません。彼女の「どんなきっかけで生まれようと生命は同じ。精神の偉大さは苦悩の深さで決まる」という台詞は蓋し至言でしょう。
それは五巻の終わり、彼女が土鬼大海嘯の「真実」を知った時でした。大海嘯の原因たる粘菌は人間の愚行=腐海の軍事利用にも関わらず、王蟲は人間への(当然の)怒りではなく、ただ仲間たる粘菌を救い、腐海に迎え入れるため「だけ」に、自らが苗床になる形での自死を選んだのでした。
これについてはやはり、戦を避ける「ナウシカの道」=それに殉じた僧正という図式が必要であり、「ナウシカの道」を説き広める者が必要です。そして、その役割を担った者こそケチャ達であり、だからこそ僧正の幻影を「演出」したチククも「ちょっと手伝っただけ」と言ったのかもしれませんね。
昨日のわが社
偉い人「年末恒例の、社長による社内まわりですが…」
ワタシ(今年は流石に中止やろ…)
偉い人「密を避けるために、今日から3日に分けて行います」
あ ほ で す か
そしてシュワに至る山地帯(聖なる谷)は年中降雪も著しい寒冷な場所なうえ、シュワ周辺は「錆びたセラミック片の砂、溶けた都市でできた岩山」からなる荒涼たる砂漠であり、豊かな食料生産など望むべくもありません。
今週の #逃げ上手の若君 の見どころはやはりこの後醍醐帝のカリスマ描写でしょう。この帝ならあの尊氏公ともガチンコ対決できそう…そういえば、本作では後醍醐帝と尊氏公が互いをどう思っているかがまだ詳細に描かれていませんが、その辺りも楽しみですね。