ドラえもん「あと君のひ孫は不良になる。玄孫も不良になる」
ジョナサン「グレる子多いなぁ」
ドラえもん「で、来孫」
ジョナサン「・・・」
ドラえもん「玄孫の子ね? それはムショ送り」
ジョナサン「なにが起こるの僕の家・・・」
※仗助はジョナサンから見たらひ孫、承太郎は玄孫。
「戦を識っていて、武士とは人を殺す者だ」と解しているコレンと、「武士という精神性と生き様に陶酔した」なギム・ギンガナムという構図に見えてしまうときもある。「ドリフターズ」での、「士道はないのか」と責める土方への、豊久に返答を思い出す。
それを果たせたのも花京院やジョセフが、DIOから嘲笑われるほど必死に、最後まで命を賭けて、「時間停止」の謎を伝えたからと思うと、胸が熱くなる話である。
エンヤ婆の言葉を借りるなら「出来て当然」という認識が、「自分なら止められる」という認識で「時間すら止める」ことが出来たわけで、
スタンド使い、「死亡」以外の「戦闘不能(リタイヤ)」という表記があるが、「死んだ訳では無いがもう敵対できない」は、「スタンドは心の力」であるがゆえに、「心に深い傷を付けられると戦えなくなる」もあるのだろう、と。
「作者が禁煙したのでキャラも喫煙を止めた」で有名だと、荒木飛呂彦先生もで、ホルホースとか、再登場時にいつのまにか禁煙パイポになってたのねw
まぁそらこんな状態じゃ、「執権だの得宗家当主だと言っても、形だけだ」と、時行様のお父さんもそらこうなるわなぁという有り様である。
だがこっからやっこしいのが、執権は本来、幕府において将軍の政務補佐役くらいの役割だったのだが、知っての通り頼家の混乱、実朝の幼年就任、公暁による暗殺などが相次ぎ、政務代行を続けるうちに、実質的最高権力者になってしまう。
地位がある、生計も立っている。
創作者としての正体は隠している。
「自分がおもしろいと思って作ったもので皆を楽しませることが幸福」な「たまたま武家に生まれてしまっただけ」の、武士道とは全く異なる「道」を見つけてしまった人なのかもな。
それもその戦いが、「アニメモデルなんておもちゃ」と笑うスケールモデラー影山との戦いで。影山操るタイガー戦車相手に、「アニメモデルだってりっぱなプラモデルだ!!」と立ち向かうシーンはシリーズ屈指の名シーン。マゼラアタックはそういう意味でも、「残った」一品なんだよ。
そうなんですね、川崎先生は野球経験こそは乏しかった。しかし、悲しく貧しい日々、年頃の子供らしい楽しみを家の事情でできなかった辛さ、そういうものは識っていたわけです。なればこそ、星飛雄馬の苦境の姿に、読む者の心に訴えかけるものがあったのでしょう
こういうのだと他に「花の慶次」の捨丸とかも思い出すな、「押しかけ子分」枠。
下忍時代は残飯貪っていた中、慶次は「いいから一緒に食うぞ」ってぶっきらぼうに言ってくれる。
そこで捨丸の流す涙よ・・・