要は「食えるうちに食っとけ」「寝れるうちに寝とけ」をした結果、たまたま一番早く(昔は塾や校外活動をする子供のほうが少数だった)帰ってきた子供の目には、「ダラダラした母親」に「見えてしまう」光景が映っていたわけですな。
作者のさくらももこ先生、ご実家八百屋なんですね。「内容に関係ないのでオミットした」設定なんですが、それでも初期の「まる子」は、さくら先生の幼少期の思い出話というスタンスだったので(なので、あのナレーションは実はさくら先生自身だった)
「キャラクター商品製造機」の回では、自分がプリントされたグッズを作って、「かっこよくって可愛くってみんな大喜びだ!」と、「金取って売ろうとした」というすげぇ面の皮の厚さ。
それぞれの家に行った三人、再び戻ってディスカッション。それぞれに言い分があるのはわかるが、親にも親の立場があることを理解します。
この回ではスネ夫がホントに珍しいくらいまっとうですw
全編でもちょっと珍しい、ジャイアンは出てこず、のび太・スネ夫・しずかで構成されるお話です。
たまたま同時に母親とケンカした三人が、それぞれの立ち位置を変えるお話です。
大人からすれば、「のびのびとすこやかに、たくましく育って欲しい」と願うのは当然です。それは善性から来る祈りでしょう。しかし、時に子どもはそれすら「うざったい」と思うわけです。
「子供向け作品の登場人物らしいことをさせない」「”子供らしい”という正解を押し付けない」
「子どもをあくまで一人の人間として扱う」
これらが「子供扱いされたくない」子どもの心に、強く惹きつけられたのではと、私は思うのです。
だが同時に、「人間らしく」はあるのです。
だからこそ、大人になって読み返しても、のび太に感情移入できてしまうんです。
「がんばれつってもできることとできないことがあんだよ」
「いやこのまんまじゃいけないってわかってるけどどないしょうもねぇんだよ」的なw
だからのび太は大概クズ人間なわけです。
努力を嫌がるし、嫉妬に駆られるし、復讐心を燃やすし、ついでに言えばスケベです。
正直、「子供らしくない」ところが多い。
もっと正確に言えば「大人がかくあれかしと思う」子供っぽさがない。
F先生の児童漫画においての姿勢、とくに「ドラえもん」において重要だったもの、それは人によって様々挙げられるでしょうが、独断と偏見で言うならば「子どもを子供扱いしなかった」なのではないかと思うのですな。
だがそれでも、「藤子F不二雄」という作家性の尊重は重要なわけで、それは時に「ドラえもん」のコンテンツとしての、もしくは商業作品としての役割を超えるところに位置すると、思いたいところです。
これがなかなかすごいのが、この和製「Qアノン」だが、本家とはだいぶ「教義」が異なるようで・・・アレなのかねぇ、日本人ってなぁローカライズに長けた民族とは言われるが、キリシタンの頃から、こういう本家が見たら「はい?」なのにしちゃうのは伝統なのかね。