「劇画」とは要するに筆圧だったのだと思う。それは握力であり腕力であり、なにより筆圧から伝わる情熱を尊ぶ時代の空気だった。もうこのググっと黒い筆圧は今のゴルゴにはない。年齢のせいであり、皆がさんざん「目しか描いてない」とかネタにして、かえって作者を追い詰めてしまったからだ。
マンガにおける「頭部のセルフシャドウ表現」というと「北斗の拳」の、ジャギ戦のケンシロウが嚆矢であると自分は思う。「こんな高度な表現をマンガでやるのか」と、当時度肝を抜かれた。「森田まさよしの学生服」がそれをコモディティ化したと思っている。こんなの毎週描いてたんだぜ。すげえだろ。
ここムチャクチャかっこいいのよな。正直南斗聖拳が一番映えたのはシンとの決戦でなくここだと思う。「一切の抵抗感なく物体を貫通する」って描写はシンの際には(演出上)なかった。惜しむらくはジャギ本人がぱっとしなかった。
物語の主人公は大抵動物に好かれる、動物と心を通い合わせることができる。これは「動物が可愛い」ということ以外にも、ある種の無意識の象徴ではなかろうか。自我に潜む獣性と知性を融和させたいという不変の欲求が人間にはあって、逆に動物が、その欲求を仮託されているとすら思えるのである。
こういう「上の方に居座る貪欲な悪党を退治する」という構図が破綻するのを見たのだ。退治したところで、もっとロクでもない奴が同じ場所に居座り、しかも、火事場泥棒のようにもっと貪欲で無能なのである。豊かな時代がこの痛快な構図を支えていたのだ。飛葉が令和の世を見なくてよかったと思う。