大正11年11月の『都新聞』には甘栗の広告や記事が目立ったので拾っておく。広告の「来々軒」や「日清軒」は当時すでに東京や横浜で多店舗展開していたようだ。「東京で一番甘い」や「元祖甘栗輸入元」にはよそとの差別化が念頭にあったのだろうから、東京ではそれなりに甘栗業者が競っていたのだろう。
堺市博物館「仁徳天皇陵と近代の堺」展、古代から今に至るまで当地の人々にとって仁徳天皇陵は今この目の前にある存在であり、とりわけ近代になってどのように巨大な陵墓とともに暮らし、課題と向き合ってきたか。まさにこの地でしか見られない展覧会でとても面白かった! https://t.co/vAn4nQSEAZ
時代は遡る。大正11年12月21日付『都新聞』に載った銀座の金太郎オモチャ店のクリスマスシーズンの広告である(サンタ帽らしからぬサンタ帽?)。「イタヅラ、オモチヤ」とあり、当時もジョークグッズ的な玩具を取り扱っていたのかも知れない。 https://t.co/olZWCGUZng
大正12年2月15日付『都新聞』「雛道具師/隠れた名人 馬道の米吉氏」、登場する浅草馬道の万場米吉は、武蔵屋の屋号で雛道具などを扱っていた老舗とのこと
木下先生の『股間若衆』や『新股間若衆』、井上先生の『ふんどしニッポン』、澁谷先生の『日本の童貞』や『日本の包茎』、そして『オトコのカラダはキモチいい』といったあたりの本を重ね合わせて「男らしさ」とは一体なんぞやと… https://t.co/Ul5SPwrl4x
大正12年3月9日付『都新聞』ワップル焼とはいわゆるワッフルのことを言っているのか、その別名が「みかん焼」とはどういうことか、それが気になって未亡人の苦労話が入ってこない。
大正12年4月8日付『都新聞』「年下の女を相手に童貞蹂躙の訴へ/日本最初の珍事件」、弁護士の山崎今朝弥が寄せている「自分も三十五の時ある婦人から童貞を破られた」「その時の自分の苦痛」「心の痛みだ」というコメントも踏まえつつ、『日本の童貞』を読んでみねば。
この人は「目黒の筍王」ではない(笑)この阿部さんが語った目黒の筍に関する雑学に功労者扱いで出て来る「初代の山路治郎右衛門」が「位牌には筍王と書いてあ」ったという筍王である。わざと桐箱に納め青物市場に出すことでブランド化を成功させた等、いろいろ気になる。大正12年4月24日付『都新聞』
明治37年11月3日付『神戸又新日報』に「神戸の新流行」として楠社(湊川神社)の伊藤博文像に向け口で湿らせた紙を吹き付けて、上手く付けば願いが叶うと言われ始めた話が載っていた。後日の紙面には試した女性の投書(11月7日付)や流行との関連が窺える投稿川柳「…下女の恋」(11月18日付)が載る。 https://t.co/TDkTEsH4w1