A・クレインはまあ中ボスといったところでしょうか。ラスボスってゆーと、版権をみんな持っていってしまったATVとか、一瞬のスキを見てのちにそれをかっさらっていったマ○△ルあたりかな。
今では考えられませんが、当時としてはあのハイペースでのレコード制作は普通と思われてたんですよね。まあそれも65年いっぱいまでですが。…とはいえそのハイペースの要求に楽々と応えてたんだからレノン=マッカートニーはやっぱすごい。
実際には「How do ~」は「Love me do」と一緒に録音されていました。2曲目をどうするか決めるときに「Please please me」と比較されたわけです。G&ペースメイカーズ版と比べるとビートルズのはジョンのボーカルもジョージのギターもなんか精彩を欠いていてやる気のなさが伝わってきて面白いですね。
信じられないことにリンゴは当初「バンドが軌道に乗るまでの期間(by ブライアン)」という約束で、研修(!)扱いの週25ポンドで契約させられてました。実はその時他のバンドからもオファーがあったのですが、そちらは20ポンドだったためこの5ポンドの差が彼の運命を決定づけたのであります。
ジョンはタバコ代どころかギターの弦代までシンシアにオンブしていました。まあ、母親がわりに甘えたかったんだろうなと良い方に解釈してますがww
そこにいたドイツ人のプリルおばさんってのが英国式ポテトフライの作り方を知っていて、いつも連中に食べさせていたそうです。さらにそこの館長というのが二等機関士だったスチュの父親の知り合いだったというナイスな偶然もあって、ビートルズは朝から夜の演奏開始まで入りびたっていたと。
驚いたことにこのあとアッシャー家に居候するまでの半年間、ポールとジェーンはプラトニックだったとP・ブラウンの本に書いてあります。まあジェーンがまだ17歳ということもあるでしょうけど、あのポールが…ww
タイムリーに「レリビー」ネタですが、個人的にはメトロイド(switch)がタイムリーなのですいません。メトロイドおもろいど。
パンケーキと呼ばれるメイク用具を勧めてくれたのはテッド・テイラー・フォーというインストグループの連中。ポスターはブラックプールでのライブ用だったらしい。アンソロジーでポールとジョージが「あの汚点は一生消えないよ」と言ってますw
デラニー&ボニーのツアーにデイブ・メイスンの後釜としてチョイ役参加したあたりからジョージは本格的にスライドをやりだしたそうです。ビートルズの曲でもあちこちで聴けますね。ジョンやポールもやってたし。