専門家として言っていること自体に問題があるなら批判されるべきだが、「テロリストの娘」という理由で批判されるのは、一体どんな封建時代の発想かとは思う。
これ、原作を読み返したら、原作の時点で英語だった。やはり一枚絵でバン!と画面を占領するアニメの方が、それぞれのコマのインパクトはあるということがよく分かった。やはり漫画とアニメは、その表現において似て非なるもの。 https://t.co/5xd9sTGSUV
ただ、そのような工夫を凝らしても、あの神懸かり的としか言いようのない、原作漫画の表現力には及んでいない。これは漫画と映画の表現力(表現の特色)の違いなので、いかんともしがたいところだ。
それを克服するために今泉力哉が編み出した技法が、頻繁に挿入される黒みだ。あれは明らかに、原作漫画の余白を別の映画的表現に置き換えたものだ。それは確かに成功している。また多くのシーンにおいて、台詞がこれ以上無いほど完璧な「間」を持って発せられている。こちらも同様だ。
あの漫画が凄いのは、一方で饒舌な台詞を盛り込みつ、もう一方ではたっぷりとした余白を取ることで、「言葉で語れること(言葉でしか語れないこと)」と「言葉では語れないこと」の両方を描ききったことだ。この点では映画はだいぶ分が悪い。
たとえば遊園地のシーンなどは一番分かりやすい。このシーンを映画と見比べてみれば、同じシーンでも、漫画と映画で肌触りがまったく違うものになっているのが分かるはずだ。映画はあるゆるものが映り込んでしまうし、撮影の現実的な条件もあって、この漫画のような表現にはなかなかならないのだ。
原作も台詞はかなり多く、喋るシーンは非常に饒舌だ。しかし全てのシーンにおいて、映画のように余計なものが映らない。背景がかなり描き込まれていても、それはあくまでも背景。常に描くべきものにスポットが当たっていて、余計なノイズがなく、静謐な空気が終始漂っている。
ストーリーや構成は9割方原作通りで、これほど原作に忠実な実写映画化は珍しいほどだ。しかし全体的な説得力では、漫画表現の1つの到達点とすら言える原作には及ばない。これはおそらく原作の絵が徹底した「引き算」で出来ているからだと思う。
ちなみに私、非常に多くの方を名前やアカウントではなく「プロフ画像」で覚えているため、画像を変えられると「この人誰だっけ?」となってしまう。それが比較的発言数の少ない人で、しばらくの間発言を見逃していると、「俺、どういう関係でこの人をフォローしてたんだっけ?」とまでなる。
そのテーマは『山月記』にも共通するものだが、代表作として有名な『山月記』よりも、私はこの沙悟浄2部作の方が心に染みた。もっとも高校生の時に読んで以来読み返していないので、今『山月記』を読めば、当時とは比較にならない感動を覚えるかもしれない。
一部で話題になっている『パーフェクト・ブルー』が1週間だけ拡大公開されるので見よう思ったら、割引無しの1600円均一か。やめた。初公開時に見た時、そこまで良いとは思わなかったからな。芸能界の闇を描いた作品なら、俺には『【推しの子】』があるし。