【Trick or Treat】骨皮道賢は応仁の乱で活躍した悪党・足軽である。東軍大将・細川勝元に金品をもって雇われ、後方攪乱などで活躍したが、西軍の攻囲に窮し、女性に仮装して逃れようするも失敗、朝倉孝景に討ち取られた。裸に近い軽装だったからなのか、足軽は当時「足白(あしじろ)」とも呼ばれた。
桃山展に行ってきた。福岡の侍展では見られなかった「銀伊予札白糸威胴丸具足」をやっと見られた。家康所用とされる一の谷兜は世紀末覇王っぽい。千姫が懸想した場面を描いたとされる「本多平八郎姿絵屏風」の平八郎少年の無造作ヘアが良かったので真似して美少年を描いてみたけど失敗…。
【土岐悪五郎】大力で打ち物とっての合戦巧者の彼は、水色の笠印のある兜に卯の花威の鎧を着て、楠木・和田の守る山を、猪のように猛然と駆け上がると、にっこりと笑った。(太平記・巻三十一「八幡合戦事附官軍夜討事」)。
#今月描いた絵を晒そう
明日から10月なんて、にわかには信じ難いっつうか、認めたくないよね。
【岸和田合戦】雑賀・根来等の一揆に備えて岸和田城に赴任した中村一氏は、彼ら一揆の来襲に苦戦したが、勇躍奮闘の末に撃退したという。
また一説に、城方が落城かと諦めかけたとき、夥しい数のタコの大軍が押し寄せ、一揆勢を退却させたという「蛸地蔵伝説」も残っている。
弓道の日。私は経験ありませんが、弓の武者をネタにして、沢山描きましたので、いっちょ噛みしておきます。
押捩り(少弐景資)
小笠懸(北条時宗)
通し矢(星野勘左衛門)
鳴弦(八幡太郎)
大島光義は、13歳の初陣以来、弓での功名は数知れない武辺者で、齢80になんなんとした頃、豊臣秀次の命で八坂の塔の窓へ、10本の矢を射込んだほど健在であったらしい(寛政重修諸家譜)。気力はなおも衰えることなく、97歳の長寿を保った。
【楠木正行妖怪退治】楠木正行は、多門丸と呼ばれた少年の頃、妖怪(古狸)を倒した伝説がある。
〈注〉画像の漫画は、国文学研究資料館蔵『楠正行戰功圖會』を参考にして、クリエイティブ・コモンズ表示4.0ライセンス CC BY-SA(https://t.co/OV7nMe45DM)の下、創作しました。
【京都火消役】天明の大火の際、火消当番だった丹波亀山藩主・松平信道は二条城本丸こそ焼失したものの、二ノ丸御殿の消防に成功、次いで京都御所へ急行する。禁裏は下馬が原則だったが、信道は下馬札に羽織をかけて押し通り、帝の避難に尽力。これが評判になり、以後緊急時は下馬不要の先例となった。