【猫の日】島津義弘は、慶長の役で時刻を知るために、猫を連れて行ったといわれている。ともに生還した二匹の猫を祀った「猫神神社」が鹿児島仙厳園内にある。
【辟邪漫画】「辟邪絵」とは、疫鬼を退散させる善神を描いた絵のこと。多くは鍾馗が描かれるが、江戸時代には疱瘡除けに源為朝ももてはやされたことがある。
【矢合わせ】元軍が上陸し、いよいよと見た日本軍は、少弐資時に開戦の合図の矢を射させた。射手に選ばれるのは名誉であり、初陣でもありして、感動的場面であったが、元軍は銅鑼を鳴らしてドッと笑い、日本の馬は驚き、兵は茫然となった(八幡愚童記)。武士が異文化と接した瞬間の記録ともいえる。
【矢文】島津氏の将の新納忠元が水俣城を攻めた折、籠城する犬童頼安にむけ「秋風に水(皆)俣落つる木の葉哉」と、落城の意を込めた矢文を送った。対して頼安は「寄手は沈む浦波の月(月の浦波とも)」と記した返し矢を送り、そちらこそ気を付けろと応酬したという。
【鑓半蔵】武田との戦いで退却を迫られた渡辺半蔵は、負傷した近藤伝次郎に請われ、手柄首を捨て、彼を担いで逃げた。これを聞いた家康は、味方を助けるのは何より優れていると褒め、「槍半蔵」の異名を許されたという話がある。半蔵は後に「俺でなければ斬り棄てられただろう」と語ったともある。
【和田合戦】義盛は愛息義直の戦死の報を受け忽ち戦意を喪失、慟哭している所を討ち取られた(吾妻鏡、建暦三年五月条)。この戦いの間、毘沙門天が義盛のために矢を受けたり拾ったりして助けたという「箭請(やうけ)毘沙門天」の伝承が、慶派の作による毘沙門天像が安置する清雲寺に伝わっている。
【鯰尾形兜】桃山時代の武将にとって、鯰は地震を起こすという俗信から、敵の心を揺るがす武勇を発揮するための縁起担ぎとして、尾を象った意匠が蒲生氏郷や堀直などに好まれた。なかでも前田利長の兜の鯰尾は長大である。
現代の我々は、大地の平穏を願って畏れ敬い、荒ぶる時に備えるのみです。