【源太産衣】源頼義は、勤仕する小一条院(敦明親王)から、頼義の子の八幡太郎義家(2歳)を見たいと言われたとき、鎧を作って、その袖に義家を乗せて見参に入ったという。胸板には天照大神と八幡大菩薩が、両袖には藤の花が咲いている様子を威しているという(『本朝軍器考』巻九)
#コロナばっかりで気が滅入るからカッコいい背中貼ろうぜ
持ってきた100本の矢を射尽くしたら、見知らぬ子が矢を拾ってきてくれて、200人の敵を撃退したんだそうな。
#2020年自分が選ぶ今年の4枚
源太景季(箙の梅)は個人的にはとても気に入っている。最後の二枚はニコイチではあるが。今年って四月が閏月の逆みたいな、無の月な印象で、ほんと一年あっという間だった。
つづき。幕府勢が頓宮ら四人に恐れをなすなか、越前の島津安芸前司の一党は馬を進め、得意の射術で田中藤九郎を仕留めると、弟の田中弥九郎が金砕棒で敵とばかり挑みかかった。西国名誉の打物の上手と北国無双の馬上の達者の攻防は、皆固唾を飲んで見守る名勝負だったという。
吉良方もされるがままではなく、上野介の家来の小林平八郎などは、槍を振るって奮戦したが多勢に無勢で闘死したと言われている(江赤見聞記)。
【一番槍】吉良上野介邸を襲った赤穂浪士は、物置に潜む上野介を発見、間十次郎が討った。この功のためか、十次郎は泉岳寺の主君の墓前で最初に焼香をあげたという。浪士の出立は揃いでなく自弁だったが、火消風にするよう指示により皆似通った格好で、槍は柄を短くしていたらしい(江赤見聞記)。
【妻鹿孫三郎】少年の頃から相撲で敵無しの孫三郎に、若武者が組み付いた。しかし孫三郎は難なく彼を左手で持ち上げて、そのまま馬を進めていると、敵が追いかけてくるので、孫三郎は若武者を右手に持ち替え、追手6人の上を通り越すほどに投げ飛ばした。まさにメガトン級の怪力であった(太平記巻八)
【死損ね左之助】新選組十番隊組長で槍の名手の原田左之助の妻は、1867年12月、「当座の暮らしに」と大金を託し、身重の彼女を気遣いつつ伏見へ行ってしまったのが、夫を見た最後だったと証言する(新選組物語)。彰義隊に加わり上野で死んだとも、死に損ねて大陸に渡り馬賊になったともいわれている。
【土佐の出来人】長宗我部元親は若い頃、色白で無口な性質だったので家中では不人気だった。初陣も23歳と当時としては遅く、その時になって槍の使い方を聞く始末であった。しかし、戦いが始まると真っ先に駆け、敵を二人突き倒したので、家来たちはたちまち心服したという逸話がある(長元物語など)。