【矢合わせ】元軍が上陸し、いよいよと見た日本軍は、少弐資時に開戦の合図の矢を射させた。射手に選ばれるのは名誉であり、初陣でもありして、感動的場面であったが、元軍は銅鑼を鳴らしてドッと笑い、日本の馬は驚き、兵は茫然となった(八幡愚童記)。武士が異文化と接した瞬間の記録ともいえる。
【矢文】島津氏の将の新納忠元が水俣城を攻めた折、籠城する犬童頼安にむけ「秋風に水(皆)俣落つる木の葉哉」と、落城の意を込めた矢文を送った。対して頼安は「寄手は沈む浦波の月(月の浦波とも)」と記した返し矢を送り、そちらこそ気を付けろと応酬したという。
【畑六郎左衛門】足利方の大軍勢に囲まれた鷹巣城に籠る畑時能は、夜になると愛犬の犬獅子を敵陣に忍び込ませた。犬獅子は、警備が厳重な場合は吠え、油断していれば尾を振るのを合図として、夜襲をかけて散々に悩ませた。敵も根負けし、酒肴を与えて退散してもらったという(太平記巻22)
【箙の梅】生田の森の戦いで、梶原景季と父景時は、敵陣深く斬り込んだ弟景高を救出した。すると今度は景季が危機に陥ったので、景時は再び突撃して景季を救った(平家物語巻九「二度之懸」)。
源平盛衰記では、景季はこの時、箙に梅の枝を挟んで奮戦し、平家の公達から称賛されたという。
【堂射】星野勘左衛門は、三十三間堂の廊下で、夜通し弓を引き続けて、堂の軒下約121mを、何本の矢を射通せるか競う「大矢数」で、勘左衛門は八千本の記録を立て、天下一(惣一ともいう)の称号を得た。江戸時代初期に流行したこの競技は、超人的な記録の更新が相次いだ。
【一国長吉】黒田長政が筑前を拝領し、一国の太守となった時、初陣から愛用してきたという槍に「一国」の名を付けた。長政にとっては感慨の深い一品のようだが、他にも沢山、筑前黒田家には宝や名物があるのを忘れてはならない。
【鑓半蔵】武田との戦いで退却を迫られた渡辺半蔵は、負傷した近藤伝次郎に請われ、手柄首を捨て、彼を担いで逃げた。これを聞いた家康は、味方を助けるのは何より優れていると褒め、「槍半蔵」の異名を許されたという話がある。半蔵は後に「俺でなければ斬り棄てられただろう」と語ったともある。
【辟邪漫画】「辟邪絵」とは、疫鬼を退散させる善神を描いた絵のこと。多くは鍾馗が描かれるが、江戸時代には疱瘡除けに源為朝ももてはやされたことがある。