【鯰尾形兜】桃山時代の武将にとって、鯰は地震を起こすという俗信から、敵の心を揺るがす武勇を発揮するための縁起担ぎとして、尾を象った意匠が蒲生氏郷や堀直などに好まれた。なかでも前田利長の兜の鯰尾は長大である。
現代の我々は、大地の平穏を願って畏れ敬い、荒ぶる時に備えるのみです。
【土佐の出来人】長宗我部元親は若い頃、色白で無口な性質だったので家中では不人気だった。初陣も23歳と当時としては遅く、その時になって槍の使い方を聞く始末であった。しかし、戦いが始まると真っ先に駆け、敵を二人突き倒したので、家来たちはたちまち心服したという逸話がある(長元物語など)。
昔描いた、龍造寺隆信の最期。肥前の熊のまんまのイメージが、時代を感じさせる。でもこのページ、個人的にはとても気に入っているのである。
【和田合戦】義盛は愛息義直の戦死の報を受け忽ち戦意を喪失、慟哭している所を討ち取られた(吾妻鏡、建暦三年五月条)。この戦いの間、毘沙門天が義盛のために矢を受けたり拾ったりして助けたという「箭請(やうけ)毘沙門天」の伝承が、慶派の作による毘沙門天像が安置する清雲寺に伝わっている。
【いい風呂の日(11/26)】
源義朝「よくねーよ!」
※義朝は、逃亡中に立ち寄った家人の屋敷で風呂に入った時に襲撃され、帰らぬ人となった。