大島光義は、13歳の初陣以来、弓での功名は数知れない武辺者で、齢80になんなんとした頃、豊臣秀次の命で八坂の塔の窓へ、10本の矢を射込んだほど健在であったらしい(寛政重修諸家譜)。気力はなおも衰えることなく、97歳の長寿を保った。
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持ってきた100本の矢を射尽くしたら、見知らぬ子が矢を拾ってきてくれて、200人の敵を撃退したんだそうな。
↑帝の不調に頼政が召されたのは、八幡太郎義家の先例に拠るとされるが、このとき源義家は、弓弦を三度鳴らし名乗りをあげただけで、堀河天皇にふりかかった怪異を退散させている。凄い。(平家物語・巻第四・鵺)
【内藤正成】織田信秀の軍勢の夜襲に応戦した時、持参した100本の矢が尽きそうになると、傍らに「怪しき童子」がいたので、矢を持ってくるよう頼むとすぐさま拾ってきた。おかげで死傷200という戦果をあげた。信長が作った武者リストでも、正成は黒点を押されるほど抜群の武功者だったという。
【岸和田合戦】雑賀・根来等の一揆に備えて岸和田城に赴任した中村一氏は、彼ら一揆の来襲に苦戦したが、勇躍奮闘の末に撃退したという。
また一説に、城方が落城かと諦めかけたとき、夥しい数のタコの大軍が押し寄せ、一揆勢を退却させたという「蛸地蔵伝説」も残っている。
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絵画ではないけど。
・楠木正行奮戦図(四条畷の戦い)
・上杉謙信凱旋図(所謂女性説によせて)
・伊藤景清シコロ引き(ガンダム大地に立つに想い馳せて)
・立湧紋二枚胴具足(池田治政夫妻)
【京都火消役】天明の大火の際、火消当番だった丹波亀山藩主・松平信道は二条城本丸こそ焼失したものの、二ノ丸御殿の消防に成功、次いで京都御所へ急行する。禁裏は下馬が原則だったが、信道は下馬札に羽織をかけて押し通り、帝の避難に尽力。これが評判になり、以後緊急時は下馬不要の先例となった。
【悪七兵衛景清】上総介忠清の七男・伊藤景清は、勇猛な平家の家人で、屋島の戦いでは源氏方の美尾屋十郎の兜のシコロを素手で引きちぎった「錣引き」で有名。「悪」は目上の親族を討った者にあてられることもあるが、概して「強い、勇猛」の意。