ちなみに『ぼっち・ざ・ろっく!』原作漫画(添付)ではそこまでの描写はなく。
他にもいろいろと
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(こうして挙げた二箇所以外にも数多く)アニメ化にあたって色々考えて描写を加えたり時系列入れ替えたり諸々の工夫がありそうで、楽しみですね。
チェンソーマン106話「焚火」。
吹き出しの表現、例えば『それでも町は廻っている』9巻/第71話「歩く鳥」
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で見かけもしたようなやつ使ってるなー。
この場合だと、ユウコの自己完結してしまい、他人の声が全く届かないありさまを示してるのかな。
『ぼっち・ざ・ろっく!』OP曲「青春コンプレックス」とED曲「Distortion!!」、作中で結束バンドの歌詞は概ね後藤ひとり担当となっているところ、コンセプトは3巻p68のこれが守られて(?)いるのかな、もしそうだとすると……とぼんやり考えながら聴いていたりする。
「ぼっち・ざ・ろっく!」2話もめちゃくちゃ楽しかった。後藤ひとりがなんとか一歩(いきなり千歩は無理だけど)を踏み出す心の動きとそれを促す天使のような伊地知虹夏さんの心配りを原作から手厚く補完する方針が引き続き強く打ち出されてる。例えばこの2コマを色々拡げてた。
原作では1枚目が四コマの一番下のコマ、2枚めが次の四コマの1番上のコマ。漫画だとそれでいいというか、多分、それがいい。
翻案って例えばこうして媒体の性質に合わせてやってくれると嬉しいな、という。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の流れとして途切れない映像体験の作り方、本当に素晴らしい。
ぼっち・ざ・ろっく!2話
「(今日出演するライブハウスはStarryっていうんだけどね)私のお姉ちゃんがそこの店長やってて、っていうか店の上のマンションに私ら家族が住んでて」
※1話では丁度ひとりの独白に遮られ聞こえない
と語られてた。原作の「私の家だから」に説明追加したのかな?
「アオのハコ」73話の千夏先輩、三角関係における恋愛戦闘力(?)が出没するクマ……行動も内心もおよそ理解も推測も予測もできないけど遭ってしまえばその暴力的な魅力に抵抗できるものではない、という形で示されるヒロイン、面白いな。
チェンソーマン107話「学校の襲撃者」。ユウコさん、罪作りな女だね。罪を憎んで人を憎まずなんて古い古い、罪を作って人を裁く、うん、これだ(やめよう?)(「罪作りな女」ってそういう意味じゃねえから)
アニメ版では2話で描かれている早川アキのデンジへのヤキ入れ、口にしていた通り概ね本当に「優しさ」だというのは、タバコを通じて……後に示される、やはり死なないで欲しいからアキに公安を辞めて欲しかった姫野センパイと重ねる形で強調しても描いてるから。
アニメ版チェンソーマン2話、早川家での生活の始まり。
原作とはっきり違う方針を選択して、原作「生活に侵入されめちゃくちゃにされるアキがデンジをみつめ苛立ちを募らせる」からアニメ版「まともな生活を知らないデンジの振る舞いにアキは苛立ちを募らせつつ共に生活が始まっていく」になっている。
『法治の獣』では「人間が」探査するからこそ懸けずにはいられない思いとストイックに探査対象を傷つけることは勿論、僅かな影響を与えることも厳に抑えなければいけないとする原則との葛藤があり、そこは『ぼくらはよあけ』人工知能である「二月の黎明」と対照的かな。そこも面白いとも言えるけど。
原作『ぼくらのよあけ』最終話(話数タイトルも「ぼくらのよあけ」)で「二月の黎明」は冒頭でも「生命の本質は変化することそれ自体だ」「私はそもそも それを確認するためにこの星に来たんだよ」、そして帰還の噴射を悠真が見届けながらの回想場面でも添付のように語るわけだけど。