出会った人間たちとコミュニケーションをとるためのUI構築にSHⅢをコピーし、コミュニケーションし。後には「ナナコ」を一時的に乗っ取りもしてやはり新たに出会った人間とコミュニケーションを取る。
それらはそれこそ、
より「わかりやすく」言えば「二月の黎明」も出会った人間たちも、互いに互いを「友達」だと思い実際にそうであるなら、その実践は成功していた、まさしく求めていた「変化」はその身をもって手に入っていたということではと思える。
映画『ぼくらのよあけ』をもう一度観る前に、例のカエルまわり一度原作ベースで、少し整理。
まず、花香にとっては嫌なことばかりの日常からかけ離れた宇宙船がどうこうという「何これ 何これ……!!」というワクワクがあり。
それで躍った心のまま、そのワクワクに必要だからと大義名分も立ち、カエル取りに夢中になるなんてガキっぽい事をあえてやってしまう、その爽快感だった。そしてすぐ後、大嫌いな岸わこ絡みでワクワクも爽快感も台無しになり、関係ない筈のその弟に酷い態度を取ってしまったという話だったのだけれど。
悠真は"あんなにカエル取りに熱心だったんなら、あいつカエル好きなのか。じゃあ、コア返してもらうためにも仲直りするならカエルのガチャガチャ手土産にして……"という理解なり感性なりだったりする。花香の「カエル推しなんだ」という内心の独白と場面、そうしたギャップが見事に出ていて凄く良い。
いろんな思いが絡まり合って、こんな風に花香は吹き出し、笑い、じっと貰ったカエルのガチャガチャを見つめていたんだ、という。
こうして言語化していくと結構入り組んだ描写のセット(川でのカエル取り/仲直りのプレゼント)だなと改めて思う。
「内省的で賢く、自身が自分が嫌う「イヤな子」になっていることに正確に気づき悩み苦しみ、でもどうにか一歩を踏み出す人物、シチュエーション」が今井哲也作品には魅力的な類型としてあり
『ハックス!』秦野友里
『ぼくらのよあけ』河合花香
そして
『アリスと蔵六』敷島羽鳥
といった例がある。
ぼっち・ざ・ろっく!3話でもアニメ版伊地知虹夏さん、後藤ひとりのすぐ折れそうになる心を支えてやる守護天使化している……。
2枚目"ひとりを見て"「あの日はなんとかなったしね」。で、3枚目のひとりの顔。
更に、
#ぼっち・ざ・ろっく
「喜多ちゃん「も」これから結束バンド一緒に盛り上げてほしいな」
喜多ちゃん「に」ではなく。
更に追加台詞。
「喜多ちゃんが逃げ出していなかったら、ぼっちちゃんとも会えてなかったよ」
この階段という場所、その構図も強調しつつ。
#ぼっち・ざ・ろっく
ところでぼっち・ざ・ろっく!3話の喜多ちゃんのハンカチ、原作ではなかった苺の刺繍がされているのだけども。まずもってそれ関係ないとは思うけど「苺模様の刺繍のハンカチ」って嫉妬の劇であるシェイクスピア『オセロ』で凄く、大変に嫌なアイテムだったりする。いや本当に関係ないと思うけど。
で、まず川べりで「お おれと姉ちゃん関係ないじゃん!」と抗議というかすがりついたら、こう突き飛ばされ。
後に屋上でそれと重なるように、今度は「あ あのっ、 ねえ もう来ないの? お おれのせい?」とせいいっぱい心を寄せてもやはり姉のために突き飛ばされ、
世の中「ろくでもなさすぎる親の呪縛から逃れようとする子どもの物語」は数多いけど個人的にまず真っ先に思い浮かぶのは『少年魔法士』のレヴィ・ディブランで。水星の魔女のミリオネさんの振る舞いの不器用さをみていてとあるくだりを読み返したくなり、少し探してた。見つけた見つけた、11巻のここ。