『かげきしょうじょ!!』11話。
希望する役の悩みを暁也と話す場面。
原作で浅草のさらさ実家の賑やかさを背景にしていたのがスーパードライホール、松本零士デザインの遊覧船ホタルナ等に。
(昔ながらの伝統や印象に留まらない)新たなイメージへの挑戦を、という心の行方に重ねたりしてるのかな?
13話、ここで白川煌三郎はすごく怖くて鋭い目つきからいつもの柔らかさに崩れるように持ち直さないといけないと思えて、取りこぼしてはいけないニュアンスってあるとちょっと思えてしまったりもする…………。
『かげきしょうじょ!!』音楽集、作曲者・斉藤恒芳インタビュー
https://t.co/2kANfM2FN8
紅華歌劇団「ファントム」の劇中歌として3パターン収録された「愛を乞う歌」のバリエーションの話、アニメ版9話では割愛されてしまった原作9話(3巻収録)での安道先生が語る演技論の補完みたいな趣もあるなー。
既刊(4巻)より後の公開されてる話数(25杯目(1)以降)の感想は今ちょっと考えたりまとめたりしているのでできれば今日中に少し出せれば……。
25杯目(2)のカウンターを挟みつつ隔てられていない1コマ(添付2枚目は2巻収録7話)。
過去に「ポタ ポタタ」と珈琲が注がれた時の状況と思い、
『珈琲をしづかに』25杯目(2)のこのコマ(1枚目)。
https://t.co/vY6m2jXzNM
その前(2枚目)でも語られている「カウンター越し」に、カウンターに隔てられた上でしか人に向き合えないという話に対して、カウンターを通じて繋がっている/繋がってこれているよ、ということでもあり。
『珈琲をしづかに』という作品、1話からずっと「大人」になりたい、「苦さ」と向き合って味わうことができる人間になりたい……でも(まだ)なれない、という話を繰り返ししていて。
その中で、色々と
https://t.co/C8tCEtqwCd
あって。
その上で妹との「でも できないままでいいって言われるの ちょっと安心するよね」といったやりとり(「25杯目(1)」)もあったりしつつ。
(とてもすぐには)飲み下せない抱えた「苦さ」に向き合って味わえるように"ならないといけない"、そうでなければ自分は自分自身にとっても、
そして誰かの大切になる、それを受け入れるだけの価値はないなんてことはない。
時には(まだ)受け止められないような苦さだったら逃げたりとり除いたりしてしまったりしてもいい((「カフェインなくても美味しいですし!」)し、何かが出来るからとか、とにかく「~だから」という条件付きでない、
『忍者と極道』の"忍巧美男衆(テクノビダンズ)"、なにかを思い出すなと思ったら。
『アリス・イン・カレイドスピア』
https://t.co/ulIeGZZPFU
の邪視者、セレナ・アストレッサさんの脳内彼氏具現化か。
テスラノート。例えば別に原作漫画のコマみても、文字がああいうフォントでお出しされなくてはいけない理由は特にないよな……もちろんフォントだけではなく問題だらけだと思うけど……。
改めて、どうしてああなったんだよ。