更に言えば①も ア)「庭園」建設と イ)墓所建設に大別できそうです。実は、庭園は異空間への遮蔽、汚染前の大気と動植物保存、それらを「外部支援なしで」自立維持するシステム等、構造としては墓所より遥かに高度な「奇跡の技」でできているのです。
事実、墓所は自身が「絶頂と混乱の時代に」建設されたと述べていますが、もし建設が火の7日間「後」であればその破局に言及されないのは些か不自然な表現です。また、ナウシカも人類の汚染適合改造や腐海創造を火の7日間の「前後」と推測しています。
何より7巻、ナウシカは復活した巨神兵オーマと共にシュワを目指し、墓所と戦います。この時彼女は「愛してもいない巨神兵、それも我が身を母と慕う者を利用するのか」と牧人に指弾されますが、ナウシカはその葛藤から目を背けることなく正面から呑み込みつつ、墓所と対峙することとなります。
③「復活」後のナウシカの戦いの最大の特徴は「独りではない」ことです。例えば対巨神兵戦では、ミト達に吊船撃沈による誘爆を命じますが、勿論吊船には大勢の人員が乗っており、彼女はそれを承知で独りで抱え込まず、ミト達に命じる形で「共に」戦っています。
勿論、ここでのナウシカは①段階と異なり、激情で我を忘れることなく自覚的に戦いを行っています。が、こうしたナウシカの「危うい」戦い方は、彼女自身の内なる虚無に激しく非難されます。他人(ミラルパ等、欲望・憎悪に翻弄され虚無に呑まれた者たち)の愚行をお前はとやかく言えた義理なのか、と。
が、その姿勢は矛盾を孕む危ういものでもあります。独り撤退を支援するナウシカを庇い幾人もの装甲兵とカイが倒れ、また彼女を狙撃せんとした「アスベルによく似た」少年兵もあたら命を散らします。何より彼女の「戦功」は土鬼側にとっては、いずれ自分達の破局に繋がりかねないものでなのす。
とはいえ、サパタでのナウシカの戦いには、まだ「独りで背負おう」とする姿勢がありました。単騎で抜け駆け、鏑弾で土鬼軍を混乱させつつクシャナの撤退を援護したのです。それは彼女なりに、なるべく「戦い」をしない、またクシャナへの借りを返そうとする姿勢でもありました。
更にクシャナはナウシカを全軍の前で「只一人盟約国から馳せ参じた勇士」として紹介します。このことと戦場での奮戦が、サパタ部隊からの信用獲得と、ひいては土鬼大海嘯からの部隊救出にも繋がっていきます。
更に、トルメキア兵から見ても問題はあります。何せ、九割方持ち帰れないとはいえ、城内の捕虜は大事な戦利品。それを殿下にくっついてきただけの属国の小娘に云われてどうして手放さねばならぬのか。実利や理屈云々より感情として従えないでしょう。
鍵は直前の会話にあります。クシャナが拒めば土鬼軍に加わると告げる彼女にクシャナは「そうなれば世界を相手に一人で戦うことになる」と返します。奇しくも、臨終の父ジルも「ただ独りで世界を救うつもりか」と案じていました。どちらも「独りで世界を背負う」ことを懸念しているのです。
そうしたナウシカの転機となるのが、②サパタ戦への「参加」です。ここで捕虜解放を求めるナウシカは、クシャナから交換条件として戦闘への参加を求められます
。ここで面白いのはクシャナの側の意図です。彼女は何故、ナウシカに「手を汚せ」(歌舞伎版)と迫ったのでしょうか。
まず①の段階ですが、ナウシカはトルメキア兵の挑発や土鬼兵の狼藉に「我を忘れて」激発し、その後に後悔に駆られます。そんな彼女に歌舞伎版ユパは「憎しみから逃げてはならぬ」と諭しますが、この点は後々漫画版でも重要にはなります。