この単行本追加部分(4巻81頁下半分~83頁上半分)は、出陣前に暇乞いに来たクシャナを、母がそれと認識出来ず、「敵」から娘(実際は人形)を守ろうと敵意を顕にするという、かなり切ない場面です。よりによって、母から仇と思われるとは!しかも母はまだ自分(と思い込んだ人形)を愛しているのに!
カボ基地編では兄皇子との対決とその呆気ない横死、母との思い出など、クシャナの内面とトラウマを深く掘り下げる話が凝縮されます。が、実は「出陣前の母への挨拶」場面は単行本で追加されたものとなります(左がアニメージュ連載版、右が単行本第4巻)。
そうした意味では、僧会の教義や「神聖語」には、元々は「土鬼に共通の宗教・言語」を定着させることで、部族間対立を解消するという「善き狙い」があったと考えることもできそうです。…結局は監視と圧政の目玉お化け()が出来上がってしまうのですが…
こうした中、僧会(及び皇帝)は紛争仲裁者としての役割を期待されたと考えられます。当事者同士でいがみ合うより、「余所者/共通の嫌われもの」に捌いてもらった方が、相手から自分達に返ってくるヘイトも(相対的に)少ないですしね。
即ち、土鬼諸侯国は部族間で言語も大きく異なり、また場合に依り「仇敵同士」といわれる程はげしい部族間対立が見られます。もしかすると、元々は信じる宗教すらバラバラだったのかもしれません。
ここに神聖皇帝側のジレンマがあります。求心力確保の為には僧会主導での勝利が必要ですが、そのための犠牲が大きすぎると諸部族が「そんな勝利糞食らえ」と一斉に離反しかねない…ミラルパの焦燥と絶望は深いですね。
それでもチヤルカが敢えて不問としたのは、各部族の反発を考えてでしょう。皇帝が自国土に瘴気をばら撒く決定を下し、これに異を唱えた族長を処罰したと知れ渡れば、それこそ「そんな皇帝は要らない」となるでしょう。長老のいう通り、「民あっての皇帝」なのです。