謎マナーて、
例えば小笠原貞宗が、胡座や立て膝が一般的だった時代に、何故『正座の方が礼儀正しい』としたか?とか考えると、
『先にマナーがつくられて、それが受け入れられる』
のだから、
『新しくマナーをつくること』自体は批判されるようなことではないし、それを謎マナーと笑う必要もない⇒
真言陀羅尼の発音が台密系より東密系の方が広まっているの、
東密系は真言を唱えなけれは宗教的な救済は難しいので、世俗の人にもある程度は教えないといけないけど、
台密系は法華経での救済が重視されているから、密教の技法を世俗にもらす必要性が低かったから、
という見方があったりなかったり。
ただ、この話は鎌倉中期の説話集『私聚百因縁集』にある、『須弥山に迦楼羅天尊の巣があるので、阿修羅尊は山を動かして巣の子を振り落とし、それを食す』という話がもとになっていて、
経典には阿修羅尊が迦楼羅天尊を食べるという話はないようです。
密教修験系(だけじゃないけど)、仏像も仏具も本も装束も、Amazonやヤフオクで(昔に比べて)簡単に手に入るようになり、『物欲』ならぬ『仏欲』が押さえきれないのがキツいのです。
(手の届くところに)
『ある』のがいけない!!!
『ある』のがいけない!!!
雑に。いわゆる審神者は、神霊の依代となるミコと、その素性をただす司祭との二人組のシステムで、神功皇后と武内宿禰の時代にまで遡る古い形式ではあるけど、
仏教(密教)伝来後は、宗教者が直に神霊と対話するシステムが形成されたとみるなら、
ソレだけを殊更に重視はできない、という見方もあると。
いかに宗教的信仰的に正しくいきるのか、いかに宗教的信仰的存在の御心にそう生き方ができるか、というのが重要であるはずなのに、
その宗教信仰の影響力や信用やブランドをつかって、自分の好き嫌いで世界をうごかそうとするのは、
宗教信仰ではなく、その力につかえているんだなぁ、と思うのですよ。
私が奇行をなすスピリチュアラーさんや、妖しいセミナーに大金をつぎ込む人を、あまり否定的には語らないのは、
あの人達がオカルト(宗教や信仰、それにもとづく呪術等)に目覚めたとき、その話を聞き、誠実に対応し、批判し、根気よく良い方向に導びいてくれる先達や仲間に出会えなかったから、⇒