以前、漫画版『陰陽師』のカットを使ったとき、『なんで平安時代に吉田神道が?』という突っ込みがはいりましたが。
そういう楽しみ方もありだし、
もちろん作品内の世界観を素直に受け入れるのもありで、
そこはみる人の自由なわけですが。
されているので、
『小反閇作法并護身法』みたいに、体内の気を五聖獣という形で外に出すと、その分、体内の気がへってしまう、
というのは陰陽道に内包される中医学でもって、
陰陽師も自覚していた可能性はあるわけで。→
オカルト実践(越法/越三昧耶)とかスピリチュアルとかが、伝統的な宗教(やそれが好きな人達)から『自由に好き勝ってやっている』と批判されるのは仕方がないとしても、
だからといって、
ちょっと話題にあがったくらいで、『とりあえず叩いとくか』と殴りにきてマウントとろうとするのもどうかと。
滝沢聖峰先生の昔の漫画『安部窪教授の理不尽な講義』で、
『超常現象』を、
たとえ心霊現象であっても、原因と結果の説明ができ、因果関係がはっきりしているものは『ありきたりな事象』にすぎない。『超常現象』とは一切の説明を受け付けないものである。
と定義していて、面白いと思ったり。⇒
映画『陰陽師』の
青龍避万兵
白虎避不祥
玄武避万鬼
朱雀避口舌
黄龍伏魔
の呪文は若杉家文書『小反閇作法并護身法』のアレンジで1154年のものだから、
安倍晴明の時代にこの作法が成立していたかは疑わしいという考え方もあるそうで。
あんまり正しいか否をいうと、楽しめないと思ったり。
天体観測や和算をオカルトとして見るなら、
それは神の御業、
宇宙の運行の深秘、
世界の理という神秘を、
人が観測し解体し読み解く行為であると。
神秘は神秘側に属する存在にしか観測/理解できない、
とするなら、
陰陽師の『陰陽道の実践』は、それ自体が『オカルト実践』であると思ったり。
いかに宗教的信仰的に正しくいきるのか、いかに宗教的信仰的存在の御心にそう生き方ができるか、というのが重要であるはずなのに、
その宗教信仰の影響力や信用やブランドをつかって、自分の好き嫌いで世界をうごかそうとするのは、
宗教信仰ではなく、その力につかえているんだなぁ、と思うのですよ。
高速道路の事故現場近くで舞っていた巫女さん(仮)、本職の巫女さんからダメ出しだされていたけど、
(その善し悪しはひとまずおいて)
おきた事故に何か感じるものがあって、手元にあるもので装いを整えて、ナニモノかに働きかけて大難を小難に変えようとするの、
昔の民間宗教者的で面白いと思ったり。
七曜讓災決には、
『常に隠行して見ることができず、人の本宮に到って則ち災禍が有る』
とあり、隠れていることに気がつかないと最重の厄を為すとあります。
人の本宮、西洋占星術でいうところの黄道十二宮ですね。
そこを計都(彗星)が侵していることに気がつかないと、大きな厄に見舞われると。⇒