ないと。
神話においては、神は人格神であり、人のように喜怒哀楽の感情をもって振る舞う存在であるわけですが。
宗教者サイドが『人格化した神』として布教しているのに、
俗人側が『人格神』として信仰してその人間性に期待したら、本当の神様はそんなんじゃないと梯子をはずすのも
あまり他の方の方針に何かを思うのもよくないとは思うけど、
オカルト(宗教/信仰/加持祈祷/占術を含む広義のオカルト)実践の指導者的な人は、
教え子が自分より上に行くことを喜ぶべきで、自分の劣化コピーを大勢つくって、そこでオリジナルとして君臨したい、みたいな欲求があると皆いなくなると。
江戸時代の、大衆娯楽の黄表紙の創作妖怪も『妖怪』としてカウントするのに、現代の漫画や小説や映画などから発生した妖怪を否定するのは、どんなものかしらと思ったり。
オカルトとか批判する人は、
『納得はしなくていはいから、言っていることは理解してください』
と思うことはある。本当にある。理解と納得は別なんだってわかってほしい。
(過去にイロイロあった) https://t.co/20vurCGzHI
『妖怪ハンター』の稗田礼二郎は、別に霊能者ではないけど、
考古学/民俗学/人類学の知識で『過去の所作』を知り、定められた時間、定められた場所で定められた条件を整えて、定められた所作をすることによって、異界の扉を開いたり、そこから怪異を招いたり、その姿を見たりしている。⇒
真言陀羅尼の発音が台密系より東密系の方が広まっているの、
東密系は真言を唱えなけれは宗教的な救済は難しいので、世俗の人にもある程度は教えないといけないけど、
台密系は法華経での救済が重視されているから、密教の技法を世俗にもらす必要性が低かったから、
という見方があったりなかったり。
織田信長公は、
武田信玄公が天台宗の一番偉い人(天台座主沙門)の肩書をつかったので、
じゃあ自分は僧侶の修行を邪魔する第六天魔王じゃあ!と自称したという話があったりなかったり。
創作物において、民俗学者が呪術行為者にされているの、諸星大二郎先生の『妖怪ハンター』シリーズの稗田礼二郎が初期の代表だと思うけど(ただし考古学者という設定)、この段階だと、話の進行の理解を助けるための狂言回し的な役割の方がつよいと。⇒