もともと正座は、神仏を礼拝するときの座り方であったという説があるのだけど、小笠原貞宗はそれを人に対する礼儀としたわけで。
それは神仏をその座から下ろして、そこに人を置いた、都も解釈できるわけで。『逃げ若』で正座のエピソードを描いてるのは、そういう含みがあるのかもと思ったり。
密教修験系(だけじゃないけど)、仏像も仏具も本も装束も、Amazonやヤフオクで(昔に比べて)簡単に手に入るようになり、『物欲』ならぬ『仏欲』が押さえきれないのがキツいのです。
(手の届くところに)
『ある』のがいけない!!!
『ある』のがいけない!!!
で。
そもそも東洋オカルトのベースにある陰陽論は、世界を陰陽の2つの記号の組み合わせで表現するものであり、これは世界を0と1であらわして計算をするコンピューターの二進法と相性がよいと。云々。
…もうちょっと考察し直して、ちゃんとした文章にしたいと思うけど、今日は力尽きたり…
宗教者さんであれ、宗教学者さんや実践者さんであれ、
あんまり一部の人が、『神仏の代弁者 』みたいに振る舞ってると、
『神仏が凄い存在なら、あなたを介さずに自分でメッセージ送るだろうし、そもそも自力で問題解決ができるはすでしょう』
ってことになる、
という見方もあるとは思ったり。
奈良で蛇行剣というと、『石神伝説/とり・みき著』という漫画がありましてね。
prime会員だとKindleで無料で読めるので、古史古伝の好きな方にはオススメだとおもったり。
残念なことに未刊ですが。
とあり浄化やリセットの意味合いがあると。
『しゅだ』の音訳は『戍駄』も『秫駄』も間違いではないので
『唵 戍駄戍駄』でも
『唵 秫駄秫駄』でも間違いではないと(私の考察もぎりセーフ)。
すべての真言陀羅尼を覚えるのは無理とはいえ、スピを叩きたいが為によく調べずに批判するのも問題が(ry
夢枕獏先生の小説『蒼獣鬼』は物部村にはいざなぎ流といざなみ流の2流派があり、主要キャラがいざなみ流の太夫という設定。
柴田昌弘 先生の漫画『スレッジ』 は、物部村ではなく『刑部村のいざなみ流』の太夫が呪詛をおこなう。和風ホラーと洋風ホラーの融合的な話で面白いです。
『近江輿地志略』に
蛇の音は邪なり。よこしまなり。不浄なり。神は不浄を忌、清浄なり。邪を悪んで正きなり。先是をもつても雲泥の違を見るべし。人すら蛇を見て、きたなみにくみいやしむ。もしまた實に蛇、神體たらば、神道にはあらで邪道なり。
とあり、神の姿を蛇体とみるのは神道でなく邪道⇒
人間の体内に三尸の蟲が住んでいるのではなく、三尸である三魂や七魄や鬼が集合して身体を形成していると。
我が身の中には八万の家があり、それぞれに九億の蟲が住んでいるなら、
あるいは『自分』とは『蟲の集合体』であり、その総意として虚構の『自我』が形成されているに過ぎない。のかもと。 https://t.co/98H5x3jb4A