「地球へ…」のソルジャーは、戦闘担当者ではなく、族長のこと。一族を守り、導くもの。最強であることが条件で、人格や付託は問わない。ソルジャーの敗北は、一族の全滅を意味する。
脆弱なミュウは、強いソルジャーなしに生きられない。だからソルジャーは、次のソルジャーを探す。
原作ファンが、「絵が動いて、声がついて、音楽も聞こえればハッピー」と喜ぶ気持ちはわかる。わかるけど、アニメにはアニメならではの演出があって、よりよくできたはず。が、「よりよく」の基準はあいまいで、演出家の哲学がにじみ、「より悪く」なる可能性は高まる。なら原作通りが安牌か。南無。
#少女終末旅行
もうすぐ終わる世界を旅するチトとユーリ。
チトは、希望があると信じて旅している。ユーリはすでに絶望しており、旅の終わりに訪れるであろうチトの絶望を和らげるため、同行している。
という視点で読むと、印象がちがってくるかも。
「大鴉」は、もっと踏み込むべきだった。有名な詩だから、みんな知ってる/調べてる/読み解きしてる前提で作ってしまった。とはいえ、私程度の知識で解説は無理。ツイートしたような、読み解きをやればよかったか。うむむ。
やりすぎか、やらなすぎか、うまくいかない。
(オレでなきゃ見逃しちゃうネタ)
映画「ファイト・クラブ」にはサブリミナルカットがあって、嘘字幕にも残してある。ラスト、石けんが出てくる直前の、3フレーム。そこにあると知っていれば気づく。0.25倍速で表示できる。
同じような話が漫画『攻殻機動隊』にもあった。
サイボーグ技術によって超精密射撃が珍しくなくなった未来では、「絶対確実に殺せる距離まで接敵する能力」が問われる。
その瞬間、その場所にいて、その機材をもっていること。
生物と機械。勝敗を分けたのは火事場の馬鹿力──すなわち愛のため限界を超えた力を発揮することだった。ブラウン「闘技場」に比べると安直な気もするが、「週刊少年サンデー」に掲載されたジュブナイルだから、ちょうどいい。というか、ほかのパターンを思いつけない。藤子先生の発想力に脱帽した。
もう少し「闘技場」の話。
翻案作品として有名なのは、藤子・F・不二雄「ひとりぼっちの宇宙戦争」(1975)であろう。
主人公の少年は人類代表として、自分と同じ能力を持った機械と決闘することに。闘技場は、時間が静止した街。誰も知らないところで、人類の命運が決まる。要素の組み換えが絶妙。
(デーモン博士)
ソ連の科学者。エイトマンのボディ(ロボット08号)を回収しようと目論むが、ことごとく失敗。東八郎の人格を含めたエイトマンに敬意を示すようになる。
テクノロジーのみを信奉し、金や権力、思想に興味を示さない。エイトマン最大の敵であり、最大のファン。
劇場アニメは、原作にないラブとアクションが追加され、必要な説明が省かれ、ぽんぽんシーンが飛ぶ。原作漫画のほうが絶対おもしろい!
・・・なんだけど、劇場アニメも捨てがたい。劇場アニメを見たら、あわせて原作も読んでほしいぜ。