これさあ、この時代のグラデのトーンって高かったんだ。「さあ、この高級品をここに貼ってやるぜ!」みたいな筆者の高揚を感じる。さながらフェルメールの青のように。
こいつの出どころが、ボルテスのようでそうでないようなわからんかったのだが、多分頭部の印象と関節の処理から見てこっちかな。
これよ! 「つめたい飲み物とサイン入りブロマイドを持ってきなさい」! この圧倒的パワーワードに対抗できるのは「東周英雄伝」の「は、はやく黄金二十両をお持ちしろ!」しかない。
例えば「鯨魂」において銀行の頭取が自身の上流っぷりを演出するため「リプトンの紅茶をトワイニングに変える」というのが出てくる。揚げ足を取るのは容易である。しかし70年代日本の紅茶のありようの貴重な記録と見ることもできる。リプトンがラジオの時報スポンサーであったことも無縁ではなかろう。
今気づいたのだが、ヴァイオリンをちゃんと弓と弦を直角に構えている。桑田次郎はものすごい勢いで描くのである。だから当然ヴァイオリンを細かく観察なんかしてなかろう。弓の持ち方でそれはわかる。しかし瞬時に弓と弦を直角に構えるというヴァイオリンの特徴、いわば本質は見抜いたのである。こうい
もうこんなことを描くマンガは登場せんと思う。理由は描ききれないから。描いている内に時代も価値観も変わってしまうから。陳腐化してしまうから。だけどそれを理由にこうした挑戦がきちんと評価されなくなるというのは、ただの大風呂敷と並べられてしまうのは、非常につまらんことだと思うんだ。
この畳み掛けるようなカットの積み重ねである。昔のマンガの伝統からこうなのだが、完全に別の技法になっている。凄惨で深刻な内容を、しかし一度突き放すように平板に構成する。そこから湧き上がる何かである。こんな恐ろしいコマ割りようやらん。
たとえばこのような視点で「戦争に突入した日本人」というのを見る。しかしおそらく、このどこにも当時の我々の大多数はいないのだ。コロナ渦中のオリンピックがそうであるように。状況の中にあって思うことはあれど、自ずから口をつぐまざるを得ない。これを我が身に思い知らされるのが地味に沁みる。