これも誰かが書き記すべきなので書く。このジャギのヘルメットは黒い。光沢のある黒である。それが、わずかなベタと周囲のラフなペンタッチだけでわかる。週刊連載でこんな高度な芸当ができたのは当時原哲夫だけであったと思う。肌の影にはトーンを使っているのにヘルメットには使わないという表現力。
マンガ家は自分で体験したことしか描けないのである。だから楳図かずおとか伊藤潤二とか想像するだに恐ろしい。何をどうしたらこんな体験をするんだ。
「マンガ」の絵はつまり「そこを描くか!」「そこは描かないのか!」の取捨選択と誇張に魅力が詰まっている。大抵の読者はそれに気づかず、ただ新しいとか古いとかの直感的な印象でそれを感じるのである。しかしただ流行に乗る上手さと違って、根底の絵の巧さというのは何十年経っても古びない。
オレが昨晩深夜、仕事の途中で手が止まらなくなって朝の四時までかかって描いた下書きなし一発描きマンガだ! 読んでくれ! いや特に意味はない。
これは誰かが書いといてやるべきなので書くのだが、もしも「北斗の拳」が昭和の時代であれば、北斗神拳の後継者はジャギである。あとの三人はダメだ。3日で事業として潰れる。そこそこ実力があり、機を見るに敏。打算的で堅実。あえて泥をかぶる覚悟もある。意外と経営者としての器が見える。
ビデオゲーム以前の「ゲーム」のニュアンスについては「ドラえもん」のこれが参考になるのではないかと思う。当時読んで脳裏に浮かぶのはこの類。これがビデオゲームの登場によって一気に一般名詞としてのお株を奪われ「人生ゲーム」などの固有名詞しか残らなくなったというのが個人的印象である。
このセンス・オブ・ワンダーである。「銀河鉄道999の乗客は最終的に機械惑星の構成部品の一つにされる」というのはSF的によくあり「まあそれも運命かもなあ」と思える。だがそこで「ネジの1本です」と言われたら「絶対ヤダ」となる。ひと目でそれを示している。この頃の松本零士は冴えまくっている。