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「これまでいい友達もなく、悪友ばかりと交わって、良いことには少しも気付かなかった。法外な振る舞いを英雄豪傑と思い込んで、間違えたことばかりした。親類、父母、妻子にまで、どれだけ苦労をかけたか分からない。」
#はやおき訳
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「金は湧く物のように使った。
その翌年、二月から体調を崩して、大病になったものだから、いろいろ療治をして、八月末には少し回復した。そこで無理をして騒ぎ出歩いたら、とうとう十二月初めから大病になって、体がむくんで寝返りもできないようになった。」
#はやおき訳
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「島田(虎之助)氏は、(勝海舟)先生に非常な才覚があるのを察して、こう助言した。
『剣術では、ただ一人の敵を相手にする。しかし君のような人は、人がやらないような物事を学び、大成できるだろう』
先生はそれより、蘭学を志した。」
#はやおき訳
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「この年、中二階を建てたが、茶を始めて、今度は茶室を構えた。竹内という従弟の隠居と、いろいろ茶道具を買い集めたが、欲には限りがないもので、また金が欲しくなった。近所や前町の切り見世一同から、それぞれ分けて金を借りると、三日の内に二十六両も集まった。」
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「それからは遊ぶが商売で、どこへでも出掛けていった。それには小遣いも要るから、道具市にも出るし、いろいろやりくりをした。
摂州へ無断でいったことが頭(かしら)に知れて、他行留を言い渡された。二月から九月の初めまで家にばかり居たが、せつないものだ。」
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「それからすることがないから、毎日浅草寺やら吉原なんかの遊び所で居た。
虎(島田虎之助)が香取鹿島参詣をしろと勧めるから、四月初めに、松平内記の家中で松浦勘次というのを供に連れて、下総からあちこちを歩いた。」
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「京都へ行き、三条の橋の脇に三日滞在して、本格的に休息をした。東海道を下り、大磯に泊まった晩に、髪を切って撫でつけになった。それから川崎に泊まって、家に案内を出したから、大勢が迎えに来て、十二月九日に江戸へ帰った。」
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「それから、村方のこれまであれこれと敵対した者へそれぞれ咎を言いつけ、水呑百姓の身分に落として、江雪斎の頃からの古百姓には役儀を言いつけ、今回金を出した者には皆、名字を名乗ることを許した。代官には、一年に九斗ばかり収穫が見込める荒地と屋敷を遣わした。」
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「三、四人が喜三郎にすがりついて、
『少しの間、お待ちくださいませ。一同が一言、申し上げることがあります』
と言った。喜三郎が、
『早く言え』
と言ったら、
『先ほど仰せの儀には、恐れ入りました。我々の家財を売ってでも、金子は用意いたします』
と言いおる。」
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「『もはや他に言うことはない。時服は村役人の家に預けるから、汚れぬようにしろ』
と言って、脱いで広蓋に載せて、喜三郎にはおれの刀を渡した。
『これで介錯しろ』
前もって江戸で作らせて持ってきた、首桶を出させた。一同へ向かって、
『頼んだこと、よくよく心得ろ』」
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「中間が、言いつけ通りに水を手桶に三杯、汲んできた。おれはそれを浴びて、白無垢の上に時服を着た。座敷の真ん中に布団を重ねて敷き、燭台を二つ、左右に並べる。おれは布団の上に座り、
『新右衛門はじめ村方役人どもに申し渡すことがある。一同、座敷へ出るように』」
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「『村中が雨のことで驚いて、皆の気が変わったようでござります。どうにか、金が出来そうになってきました』
と聞いたから、おれも喜んだ。
しかし翌晩また村の様子を聞くと、金を出そうという者と、出すまいという者半分ずつになった、ということだった。」
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