(2/4)
「やっと思い直して、あちこち物乞いして歩いたら、一日で米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文もらえた。宿へ帰ると、亭主は親切な者で、その晩は泊めてくれた。」
#はやおき訳
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「その日は藤沢に泊まり、翌朝早く起きて宿を出た。どうしたらよかろうとフラフラ歩いていると、後ろから町人の二人連れが来て、おれに、
『どこへ行く』
と聞いた。おれが、
『あてはないが上方へ行く』
と答えたら、
『ワシらも上方へ行くから一緒に行け』
と言いおった。」
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それから聖堂の寄宿部屋、保木巳之吉と佐野郡左衛門いう先生の所へ行って、『大学』を教えてもらった。学問は嫌いだから、毎日桜の馬場へ垣根をくぐって行って、馬にばかり乗っていた。」
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(2/4)
「その稽古場に、おれの頭(かしら)の石川右近将監の息子も来ていた。そやつはおれの禄高やらをよく知っているから、大勢の前で、
『手前の高はいくらだ。四十俵では小給者だ』
と言って笑いおるのが常だった。」
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「おれは馬が好きだから、毎日門前乗りをしたが、ふた月めに遠乗りに行ったら、道で先生に出くわしてしまった。困って横丁に逃げ込んだが、次の稽古に行ったら、小言を言われた。
『まだ鞍にも座らぬくせに。今後は決して遠乗りはしないように』」
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「おれが八歳ばかりの時に、親父が家中の者を呼んで、
『その原に人の形をこしらえて、百物語をしよう』
と言った。そこで夜、皆で集まって、その隣の屋敷へ一人ずつ行って、その化物人形の袖に名札を結び付けて来るということをした。皆が怖がっていて、おかしかったよ。」
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(2/4)
「この年、前町のやつと凧で大喧嘩をやった。向こうは二、三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合ったが、結局敵わなわず、干鰯場の石の上に追い上げられた。長棹でひどく叩かれて散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて切り散らした。」
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「頭(かしら)が、
『年はいくつ。名は何という』
と聞いたから、
『小吉。年は当十七歳』
と答えたら、石川殿は大きな口を開けて、
『十七にしては老けておる』
と、冗談を言って笑っていた。」
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(2/4)
「その時は深川の油堀という所に居たが、庭に汐入の池があって、夏は毎日池にばかり入っていた。
八つ時には親父がお役所から帰るから、その前に池からあがり、知らん顔して遊んでいた。いつも池が濁っている訳を、親父が利平次に聞くのだが、利平は返事に困ったそうだ。」
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(2/4)
「(勝海舟先生の)父・夢酔君が病死した時、母君もまた病床にあった。家は貧困を極め、加えて数百両もの借金があった。貸主は日夜押しかけてくるが、どうすることもできなかった。」
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(2/4)
「これまでいい友達もなく、悪友ばかりと交わって、良いことには少しも気付かなかった。法外な振る舞いを英雄豪傑と思い込んで、間違えたことばかりした。親類、父母、妻子にまで、どれだけ苦労をかけたか分からない。」
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(2/4)
「金は湧く物のように使った。
その翌年、二月から体調を崩して、大病になったものだから、いろいろ療治をして、八月末には少し回復した。そこで無理をして騒ぎ出歩いたら、とうとう十二月初めから大病になって、体がむくんで寝返りもできないようになった。」
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