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「閏八月の二日、銭三百文、戸棚にあるのを盗んで、飯をたくさん弁当箱に詰めて、
『浜へ行きまする』
と言って、夜八つ頃起きて、喜平次の家を逃げ出した。」
#はやおき訳
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「一緒に行ったら、小田原の城下の外れの横丁まで来た。漁師町に住む、喜平次という男だった。
おれを家へ入れて、女房や娘に、
『奉公に連れてきたから、かわいがってやれ』
と言った。二人ともあれこれ喋って、
『飯を食べなさい』
と言うから、食ってみたらきらず飯だ。」
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「白子の松原で寝た晩に、頭痛が強くして、熱が出て苦しんだ。翌日は朦朧として松原で寝ていたが、二日ほど経って、ようやく落ち着いたから、道端まで出て、そこに倒れて、通りかかる人に一文ずつもらった。七日くらいは水ばかり飲んで、かろうじて飢えをしのいだ。」
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「ようやく思い直して、一日、あちこちでもらって歩いた。米や麦五升ばかりに、銭を百二、三十文をもらって宿へ帰った。」
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「男は何をしても一生食っていけるから、上方辺りへ行って一生居ようと思った。
そこで十四歳の五月二十八日、金を七、八両盗み出して腹に巻き付け、股引を穿いて江戸の養家を出た。ひとまず品川まで道を訪ねながら行き、東海道へ入ったが、何だか心細かった。」
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「十二の年、兄貴の世話で学問を始めた。林大学頭の所へ連れて行かれて、それから聖堂の寄宿部屋の保木巳之吉と佐野郡左衛門という先生に就いて、『大学』を教えてもらった。
おれは学問は嫌いだから、毎日桜の馬場へ行って、馬に乗ってばかりいた。」
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「その稽古場に、おれの頭(かしら)の石川右近将監の息子も来ていた。そやつはおれの禄高や何かをよく知っているから、大勢の前で、
『手前の高はいくらだ、四十俵ではさぞ困っているだろう』
と言って笑いおるのが常だった。」
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「稽古を始めてふた月目に、遠乗りに行ったら、道で先生に出くわした。困って横丁へ逃げ込んだが、次に稽古へ行くと小言を言われた。
『まだ鞍にも座ったことがないだろう。今後は決して遠乗りはするな』
と言いおったから、今度は大久保勘次郎という先生に弟子入りした。」
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「ある日稽古に行くと、榛の木馬場という所で、前町の子供、その親どもが大勢集まって、おれが通るのを待っている。少しも知らないでその前を通ったら、
『それ、男谷のイタズラ子が来た。ぶち殺せ』
と罵りおって、竹槍・棒きれを持って取り囲みおった。」
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「親父が家中の者を集めて、百物語をしろと言い出した。屋敷の隣にある原に化け物人形をこしらえておいて、夜、皆が一人ずつ行って、その化け物の袖に名札を結びつけて帰ってくるという趣向だ。皆怖がっていておかしかった。」
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「この年、凧で前町と大ゲンカをした。向こうは二、三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合ったが、ついに敵わず、干鰯場の石の上に追い上げられた。長竿でひどく叩かれて、散らし髪になってしまった。」
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