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「藤川近義先生の年回には、出席者が五百八十余人あったが、その時はおれが一本勝負源平の行司をした。赤石孚祐先生の年忌は団野でしたが、行司取締はおれだ。井上の先代伝兵衛先生の年忌にも、頼まれて勝負の見分はおれがした。男谷の稽古場開きでも、おれが取締行司だ。」
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「それからいろいろ工夫をして、ひと月も経たないうちに、檻の柱を二本抜けるようにしておいた。だがよくよく考えてみたら、みんなおれが悪いから起きたことだ、と気が付いたから、檻の中で手習いを始めた。」
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「白子の松原で寝た晩に、頭痛が強くして、熱が出て苦しんだ。翌日は朦朧として松原で寝ていたが、二日ほど経って、ようやく落ち着いたから、道端まで出て、そこに倒れて、通りかかる人に一文ずつもらった。七日くらいは水ばかり飲んで、かろうじて飢えをしのいだ。」
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(2/4)
「謝って漁師町を出た。飯を食いながら愛宕山に入って、一日寝ていて、その晩は坂を下りるフリをして、山の木の繁っている所で寝た。
三日ばかり人目を忍んで、五日目の夜に両国橋へ来た。
翌日から、回向院の墓地に隠れて、少しずつ食物を買いに出たりした。」
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「十八の年、また信州へ行った。その年は兄貴の体調が悪くって、坂城という村の見取場の検見を、おれにさせた。
村へ出向いて、一番不作の所に棹を入れたら、籾一枡二合五勺あったから、年貢を決める時、一枡六合五勺も採れるように扱ってやったら、百姓どもが喜んでいた。」
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「親父は卒中風とかで、一日も経たずに死んでしまった。おれは真崎稲荷へ出稽古に行っていたが、家の子侍が迎えにきたから、一目散に駆けて行ったが、すでに事切れていた。」
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「一緒に行ったら、小田原の城下の外れの横丁まで来た。漁師町に住む、喜平次という男だった。
おれを家へ入れて、女房や娘に、
『奉公に連れてきたから、かわいがってやれ』
と言った。二人ともあれこれ喋って、
『飯を食べなさい』
と言うから、食ってみたらきらず飯だ。」
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(2/4)
「翌年正月、番場へ遊びに行ったら、新太郎と忠次郎が庭で、剣術を使っていた。おれにも使えと言うから、忠次郎と使った。出合い頭にひどく胴を切られて、気が遠くなってしまった。
それから二、三度使ったが、一本もぶつことができぬから悔しかった。」
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「この年、中二階を建てたが、茶を始めて、今度は茶室を構えた。竹内という従弟の隠居と、いろいろ茶道具を買い集めたが、欲には限りがないもので、また金が欲しくなった。近所や前町の切り見世一同から、それぞれ分けて金を借りると、三日の内に二十六両も集まった。」
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