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「この年、中二階を建てたが、茶を始めて、今度は茶室を構えた。竹内という従弟の隠居と、いろいろ茶道具を買い集めたが、欲には限りがないもので、また金が欲しくなった。近所や前町の切り見世一同から、それぞれ分けて金を借りると、三日の内に二十六両も集まった。」
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「男は何をしても一生食っていけるから、上方辺りへ行って一生居ようと思った。
そこで十四歳の五月二十八日、金を七、八両盗み出して腹に巻き付け、股引を穿いて江戸の養家を出た。ひとまず品川まで道を訪ねながら行き、東海道へ入ったが、何だか心細かった。」
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「藤川近義先生の年回には、出席者が五百八十余人あったが、その時はおれが一本勝負源平の行司をした。赤石孚祐先生の年忌は団野でしたが、行司取締はおれだ。井上の先代伝兵衛先生の年忌にも、頼まれて勝負の見分はおれがした。男谷の稽古場開きでも、おれが取締行司だ。」
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「それからいろいろ工夫をして、ひと月も経たないうちに、檻の柱を二本抜けるようにしておいた。だがよくよく考えてみたら、みんなおれが悪いから起きたことだ、と気が付いたから、檻の中で手習いを始めた。」
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「当日は参詣者も多くにぎやかだった。講の連中も集まってきて、酒肴や膳が振る舞われた。
兵庫がいつの間にか酒に酔って偉そうな面をして、おれの友達を顎で使うから、おれが怒ってやかましく言ったら、無礼な返事をするから、宴会の中途で、友達を残らず連れて帰ってやった。」
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「その日は藤沢に泊まり、翌朝早く起きて宿を出た。どうしたらよかろうとフラフラ歩いていると、後ろから町人の二人連れが来て、おれに、
『どこへ行く』
と聞いた。おれが、
『あてはないが上方へ行く』
と答えたら、
『ワシらも上方へ行くから一緒に行け』
と言いおった。」
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「稽古を始めてふた月目に、遠乗りに行ったら、道で先生に出くわした。困って横丁へ逃げ込んだが、次に稽古へ行くと小言を言われた。
『まだ鞍にも座ったことがないだろう。今後は決して遠乗りはするな』
と言いおったから、今度は大久保勘次郎という先生に弟子入りした。」
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「親父が家中の者を集めて、百物語をしろと言い出した。屋敷の隣にある原に化け物人形をこしらえておいて、夜、皆が一人ずつ行って、その化け物の袖に名札を結びつけて帰ってくるという趣向だ。皆怖がっていておかしかった。」
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「ある日稽古に行くと、榛の木馬場という所で、前町の子供、その親どもが大勢集まって、おれが通るのを待っている。少しも知らないでその前を通ったら、
『それ、男谷のイタズラ子が来た。ぶち殺せ』
と罵りおって、竹槍・棒きれを持って取り囲みおった。」
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「山口鉄五郎は案の定、四年目に甲州騒動で失脚し、江戸へ戻って小十人組に入れられた。三千両ほど借金ができて、家の中も揉め、大心配をして、おまけに、葉山孫三郎は揚屋へ三年、入れられた。
気の毒だから、おれも一度訪ねてやった。」
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「それからすることがないから、毎日浅草寺やら吉原なんかの遊び所で居た。
虎(島田虎之助)が香取鹿島参詣をしろと勧めるから、四月初めに、松平内記の家中で松浦勘次というのを供に連れて、下総からあちこちを歩いた。」
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