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「山口鉄五郎は案の定、四年目に甲州騒動で失脚し、江戸へ戻って小十人組に入れられた。三千両ほど借金ができて、家の中も揉め、大心配をして、おまけに、葉山孫三郎は揚屋へ三年、入れられた。
気の毒だから、おれも一度訪ねてやった。」
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「それからいろいろ立替金がかさんで、岡野家一同が困ると、またまた仙之助が悪巧みをして、丈助を出し抜こうとした。そこで丈助が一年分の支払いを計算すると、立替金は三百三十九両にもなったということだった。」
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「京都へ行き、三条の橋の脇に三日滞在して、本格的に休息をした。東海道を下り、大磯に泊まった晩に、髪を切って撫でつけになった。それから川崎に泊まって、家に案内を出したから、大勢が迎えに来て、十二月九日に江戸へ帰った。」
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「それからすることがないから、毎日浅草寺やら吉原なんかの遊び所で居た。
虎(島田虎之助)が香取鹿島参詣をしろと勧めるから、四月初めに、松平内記の家中で松浦勘次というのを供に連れて、下総からあちこちを歩いた。」
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「金は湧く物のように使った。
その翌年、二月から体調を崩して、大病になったものだから、いろいろ療治をして、八月末には少し回復した。そこで無理をして騒ぎ出歩いたら、とうとう十二月初めから大病になって、体がむくんで寝返りもできないようになった。」
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「当日は参詣者も多くにぎやかだった。講の連中も集まってきて、酒肴や膳が振る舞われた。
兵庫がいつの間にか酒に酔って偉そうな面をして、おれの友達を顎で使うから、おれが怒ってやかましく言ったら、無礼な返事をするから、宴会の中途で、友達を残らず連れて帰ってやった。」
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「言われた通りにしたら、だんだん家のイザコザも収まってきて、やかましい婆あ殿もおれを立ててくれるし、世間の人にも信用されるようになってきた。だから人が解決できない難しい相談事、話し合い、その他何でも、自分のことのように思って、助けてやった。」
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「『今晩の命の保証もできません』
と医者は言った。家中のやつらが泣いてばかりいるから、思いきり小言を言って、叩きちらしてやった。」
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「入江町の岡野孫一郎の地面へ引っ越してから、だんだん脚気も良くなってきた。
越してふた月目だったか、息子が九つの年、お城から家へ帰ってきた。」
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「男は何をしても一生食っていけるから、上方辺りへ行って一生居ようと思った。
そこで十四歳の五月二十八日、金を七、八両盗み出して腹に巻き付け、股引を穿いて江戸の養家を出た。ひとまず品川まで道を訪ねながら行き、東海道へ入ったが、何だか心細かった。」
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