「宇宙少年ソラン」第3話ガルー事件。あった、サロメとチール! チールは少年と思ったらただのオッサンだったし、サロメは宇宙人でもロボットでもなく女殺し屋だった。でも、こういうタイプの悪女は当時の少年漫画には珍しかったかも。それにしても、ソランってこんなに癖のある作画だったのか。
そして「もう一つの世界」というか世界そのものを創り出してしまう「映画」にあこがれ、それを個人の手の中につかみ取ろうとして「漫画」という形式を完成させてしまったのが手塚治虫。実際には「月世界の女」も「ロスト・ワールド」も見ていなかったそうだが、紙とペンで映画的世界を再現したのは事実
小松左京先生はSFM創刊号のシェクリイ「危険の報酬」でSFというジャンルと方法論に目覚め、それまでの文学的素養や問題意識を投入した――と信じてたんですが、それだと高校大学時代に「モリ・ミノル」としてこういうビジョンを描けたことの説明がつかないんですよ。何が小松SFのルーツなんだろう https://t.co/ckxZSzWIPN
手塚治虫『来るべき世界』の宇宙船内のヒゲオヤジとランプの死闘シーン。このアクション描写! まずあらゆるものを取りこみ、一つの世界を作ってしまう「映画」への憧れがあって、それを紙の上に写し取ろうとする執念が感じられる。この若い荒々しさが戦前からの漫画家に蛇蝎のように嫌われたわけも。
それは、完訳主義の立場から翻案ホームズに対する非難がくり返されて、まず山中峯太郎訳が消え、その後も訳者が変わった果てに子供向けホームズ叢書がなくなってしまったのです。ちなみに今のシャーロッキアンの人たちは、そういう考え方は取っておられず、きわめて寛容です。 https://t.co/YSn5M9maHK
漫画の実写化に怨嗟の声があがるのには何やら悲しいものが。たとえば手塚治虫の『ふしぎ旅行記』はこのスタジオで撮影されたことになっている。かつて「映画」とはそれ自体一つの世界であり、漫画家はそれに必死に紙とペンで挑んだ。だが、今や映画ことに邦画は警戒され軽侮される存在に落ちてしまった
「佐々木と宮野」というアニメを初めて見て、微笑ましく初々しい話だなと思っていて、次はこの宮野君が女装して告白する流れだなと思ったら違った。それはエミリ先生の「春野と夏川」だった(マンガ図書館Zにあり)。僕は作家としてBL魂がないので、どうしてもこういう発想になる。
前に挙げた画像だけど、モリ・ミノル時代の小松左京先生の作品を見ると、初期手塚と同様、映画に匹敵する総合芸術としての「漫画」への情熱と期待がわかる。超絶技巧や美麗な絵にはあまり感動できない僕は、こうした漫画絵には魅かれるし、嫉妬さえ感じたりする。
手塚治虫『ロスト・ワールド 地球篇』復刻版より。このシーンなど見ると、映画それも「洋画」を紙とペンで再現できるという喜びが伝わってくる。これが後輩である藤子不二雄の二人となると、手塚のような「漫画」を描きたいという指向に変わっているような気がする。