明治33年2月10日付『都新聞』に明治31年の東京市中での水道給水開始に合わせ創業したという東京給水社の広告が載っていた。量水器や給水管の設置工事を手掛けたようだ。給水の用途として「噴水」も挙がっている。#噴水史 
   京都岡崎の紀念動物園にライオンがやってきた。初めて目の当たりにする百獣の王の威容は人々を驚かせたことだろう。明治40年1月の『京都日出新聞』にはライオンの記事や広告が散見する。画家たちも競うように写生の筆を滑らせたようだ。咆哮は東山も震動せんばかりに響き渡る。 
   #この企業そんなもの造ってたのというモノを挙げてみよう といえば何だろう。銀座・鳩居堂の「蛇頂石」、講談社の「どりこの」、主婦の友社の「木の実スピリッツ」とか、この辺は面白い。 
   瑞巌寺の手前に「鶴園」「鹿園」とあり、この鶴と鹿を水族館へ移したということだろう。昭和2年11月10日付『河北新報』朝刊。 
   ろせったホテルの開業広告が明治40年12月14日付の『都新聞』に載っていた。「来る十七日より御料理御宿泊共開業」とある。見落としでなければ同じ内容の開業広告以外、年内の都新聞にろせったホテルに関する記事がなく、顛末が分からない。何もなければ明治40年12月17日が開業日ということになろうか。 
   #浅草珍世界 には奇魚も多くやってきている。鹿児島で捕まった白色の鰻はともかく、蛇鰻とはなんだろう。明治38年12月30日付『都新聞』 
   この人は「目黒の筍王」ではない(笑)この阿部さんが語った目黒の筍に関する雑学に功労者扱いで出て来る「初代の山路治郎右衛門」が「位牌には筍王と書いてあ」ったという筍王である。わざと桐箱に納め青物市場に出すことでブランド化を成功させた等、いろいろ気になる。大正12年4月24日付『都新聞』 
   甲府の穴切遊廓での張見世廃止、写真見世の導入について伝える。大正14年2月9日付『都新聞』、反対派からの妨害だったのか、写真をインクで汚す輩が現れたため楼主たちが交替で見張りを務めたという。