「電気燈」とかけてお染久松と解く 心は油屋の迷惑(油不要の電灯は油屋には目の敵、心中事件を起こすお染久松は油屋の娘と丁稚)、明治36年1月14日付『京都日出新聞』 https://t.co/tiDWNrX0ry 
   大正4年12月15日付『都新聞』の「当つた絵葉書」より、#絵葉書 本体もさることながらこうした美人絵葉書を巡る鞘当てなどの業界事情は面白い。「旧は美人屋は長島ばかりで万龍、栄龍、老松など矢継早に出して独りで当たが今は其の株を〔神田裏神保町の〕すみれ堂が取つた」と、業界史が語られている。 
   長崎の諏訪神社参道にある「まよひ子志らせ」石。往来の多いこの界隈での迷子を何とかしようと明治12年に警察有志が建てたという。石柱は「たづぬる方」と「おしゆる方」にわかれている。解説板はやはり警察が建てている(笑) 
   大正12年3月9日付『都新聞』ワップル焼とはいわゆるワッフルのことを言っているのか、その別名が「みかん焼」とはどういうことか、それが気になって未亡人の苦労話が入ってこない。 
   大正12年7月15日付『都新聞』、高島春雄『動物渡来物語』も明治19年のチャリネの虎の出産以来の珍しい例として紹介する浅草花やしきでの虎の子の誕生が広告に出ていた。 
   石山女相撲は昭和5年にはハワイへ渡り興行している。『布哇報知』あたりが載せていないかしらん。石山から分かれたのが第一北州倶楽部女相撲協会で(『女相撲民俗誌』43頁)、遠江灘、紅葉川なる所属の女力士二人のプロマイドを載せている。もっとも、六人を一人で背負う紅葉川の顔は見えないのだが。 
   明治43年4月20日付『横浜貿易新報』(記事・広告とも)、前年から霧島の展覧も始めた名古屋の菊園、奥村黄花園はこの春、東京日比谷でも霧島の展覧を行っていた。場所は「日比谷公園前旧中山侯爵邸跡に館を新設」とある。 
   有田音松の有田ドラッグの広告にしばしば写真やイラストで登場する大阪のこの建物が全面で紹介されていた。昭和2年10月9日付『河北新報』夕刊。所在地は大阪内本町二、鉄骨鉄筋コンクリート七階建の本館と別館があるらしい。展望室に貴賓室、大ホール、浴室、寝室、洗面所に地下室食堂まで備えている。