大正11年11月の『都新聞』には甘栗の広告や記事が目立ったので拾っておく。広告の「来々軒」や「日清軒」は当時すでに東京や横浜で多店舗展開していたようだ。「東京で一番甘い」や「元祖甘栗輸入元」にはよそとの差別化が念頭にあったのだろうから、東京ではそれなりに甘栗業者が競っていたのだろう。 
   靖國神社の臨時祭典の人出を当て込んでか、このシャチは引き続き今度は九段の方へ連れて行かれた(明治41年4月29日付『都新聞』)。ロングラン興行となってきてそろそろ腐敗が気になる頃である。 
   明治37年11月13日付『中京新報』に加藤氏による出征軍人への睾丸袋寄贈運動の仔細が出ていた。作り方の最後に「唐辛一個を入る」とある。必要に応じ型紙と現品も貸してくれたらしい。原料あるいは費用だけ寄贈した場合は「篤志婦人幷ニ女学校生徒に裁縫方を依頼す」としていた。睾丸袋を縫ってくれと… 
   明治37年11月3日付『神戸又新日報』に「神戸の新流行」として楠社(湊川神社)の伊藤博文像に向け口で湿らせた紙を吹き付けて、上手く付けば願いが叶うと言われ始めた話が載っていた。後日の紙面には試した女性の投書(11月7日付)や流行との関連が窺える投稿川柳「…下女の恋」(11月18日付)が載る。  https://t.co/TDkTEsH4w1
   明治16年前後の京都の料理屋の噴水。一枚目「生洲御料理 さの新楼」に関しては「その頃としては珍らしく庭先に噴水をこさへたり、菊を作つたりとてもモダン的な営業法だつた」と振り返る新聞記事が昭和3年に出ている。同時代に近い言及した資料が欲しい。二枚目の「吹上」はまだ手掛かりなし。#噴水史 
   @ikiningyo その「多賀城の納涼園になぞらへ」松島でも、瑞巌寺正門前(物産陳列場辺)を念頭に菊人形を飾って秋の娯楽にしたいという動きもあったようです。 
   明治44年2月4日付『都新聞』、前年11月に開南丸で出発した白瀬南極探検隊からの上陸を知らせる電報、という体を装った広告だった。「レート」ブランドを擁する平尾賛平商店のクリームの宣伝で、使えば顔や手が荒れず肌理が細かくなり美しい肌となる、「寒いときはクレームレートに限る」と結んでいる。 
   明治43年7月31日付『神戸新聞』、夏場の水不足で節水が呼びかけられる一方で、噴水などにドンドン使い贅を極める奴がいるという批判は神戸に限らず各地で見られる。#噴水史