明治39年8月18日付『神戸又新日報』に載ったこの記事は時期的に同じイベントだろうか。「怪美人千歳米坡の幽霊に扮せる写真」とあるように幽霊画だけではなく、こうした写真も出品されていたのか。  https://t.co/LmG3vO26C1
   明治40年9月29日付『京都日出新聞』秋の味覚、松茸の東京他への配送を請け負う京都の運送店の広告である。面白いのは冒頭、「松茸運送」の前に「元祖保険」と謳っている点だ。先に拾った、配送中の松茸の盗難紛失が茶飯事だったことの裏返しなのだろう。明治の「松茸が卓に載るまで」事情が気になる。  https://t.co/wbEGhumspY
   大正13年9月25日付『都新聞』「諸国の噂」欄、こちらには「嗜眠病」避けとして番茶風呂に入る、「唐黍、玉葱、紫蘇を煎じて飲み、そのあとで団子を三つ喰ふ」という長崎県で見られた事例を紹介する。  https://t.co/XrJKSAR4XM
   仙台のパウリスタに《納涼園》が出来た翌年、大正14年(1925)6月25日付『河北新報』朝刊に載った新聞広告。「後庭には噴水あり瀧あり納涼園として他の随従を許しません」と噴水が引き続き一つの売り物、アピールポイントとなっていたことが分かる。 
   靖國神社の臨時祭典の人出を当て込んでか、このシャチは引き続き今度は九段の方へ連れて行かれた(明治41年4月29日付『都新聞』)。ロングラン興行となってきてそろそろ腐敗が気になる頃である。 
   大正4年10月1日付『都新聞』、松旭斎「天一」を名乗った女性マジシャンがいたのか…?(この後の紙面では見失った)#奇術史 
   該当の『文藝春秋』は昭和5年3月号であった。載った場所は社員による雑文集「社中綴り方」なる連載企画でお題「いかもの見物記」に沿った内容になっていた。ここで岡部龍が渋谷道玄坂の見世物小屋で見た赤ん坊の見世物を報告している。絵看板や口上と現物の落差に観客は不満たらたらだったようである。 https://t.co/6yssRcjHw6 
   長崎では明治39年9月頃、市内の諏訪神社の近くにミルクホールが開店した。同9月30日付『東洋日の出新聞』。店主の山口氏は牧場をも経営していたようで、牛乳は自家で手配、そして官報や新聞、雑誌がただで読めるようにしていた(広告は10月24日付同紙)。正しく後期型の新聞縦覧所の特徴を備えている。 
   時期からすると、五代勝文斎の記事だろうか。大正9年9月29日付『都新聞』が「名人気質の勝文翁」「新工夫の押絵細工」云々として、人形町で絵馬や羽子板などを商う家の「勝文」という当主を訪ねていた。従来の錦絵風の押絵ではない、役者の写真を基にした写生風の押絵を試みているという話が出てくる。