有田ドラッグ商会の有田音松が大正9年1月24日付『都新聞』上で打った広告に父愛助と息子迪夫の写真が出ていた。「忠孝と思想問題」と題してぶち上げた全面広告で家族制度などを論じており、「祖先を崇拝」「嗣子を軍務に服せしめ」という自らの実践例を紹介するために二人を登場させたようだ。 
   見つかるときは見つかる。浅草の市川團十郎の銅像について大正9年7月13日付『都新聞』の「浅草」に「團洲の暫くの銅像は上野の南洲の銅像と好一対の力だめしの含み紙の的に成つてゐる」とあった。この銅像もか。「含み紙の的」とは紙つぶてをぶつけられていたということなのだろう。他記事も探さねば。 
   列車給仕界のスターだったのだろうか。大正11年11月5日付『都新聞』、「お召列車には必ず荒井給仕君が乗務」、英語が堪能で「外人間にも『アラヰ』の名が知れ渡つてゐる」という19歳の荒井潔少年。給仕になって四年の日給とチップを貯め上げて、鉄道従事者二万人余の頂に立つ“貯金王”になったという。 
   1930年(昭和5)1 月7日付『河北新報』夕刊より日本一美人投票。日本電報通信社が主催したミスコンで、全国の300新聞社が各府県の代表を推薦し読者投票を呼び掛ける形だったらしい。ここでは主催側で上位12名を絞り載せていた。300名の写真帖も出たようで(14日付朝刊)仙台では金港堂が発売していた。 
   大正9年夏、芝浦埋立地一号地を利用した「芝浦納涼遊覧会」というイベントが行われた。7月24日付『都新聞』の「涼しい郷へ」と題した納涼特集記事に場内の凝った噴水が載っている。ささまざまな余興や設備が用意され、その一つとして「八幡薮」があった。その委細が記事にないのは惜しまれる。#噴水史