(2/4)
「おれの身の上がこうなったのは、誰かが大兄に勧めて、おれを詰め牢にまで入れようとしたからに違いなかった。
そこでいろいろ工夫をして詮索したら、林町の兄が、先年におれに恥をかかされた仕返しに、家中寄ってたかって、大兄にあることないこと告げ口した、と確かに聞いた。」
(3/4)
「『お前さんが岡野の地面に居ながら、あれ程のことをただ見ているとは、どういう訳だ』
と聞くから、
『それはこういう訳だ。これまで食って行けない家計を、おれが骨折って食えるようにしてやったのに、丈助を雇うなと言ったら、おれを追い出そうとしたから、ケンカをしたんだ』」
(4/4)
「それからすぐ奥山へ行った。切っ先が一寸余は掛かったかと思った。大勢の混み合い場では、長刀も善し悪しだと思った。多羅尾は禿頭だから、傷が付いた。
それからケンカをしながら、両国橋まで来た。その晩は他に仕事もなかったから、家へ帰った。」
(2/4)
「雷門の内側は混みあっていて、刀が股ぐらに入って歩かれなかった。
押し合いながら進むと、ある侍が、山椒の擂粉木で多羅尾の頭を殴った。おれが押されながら、そいつの羽織を押さえると、今度はおれの肩を殴りおった。
刀を抜こうとしたが、小尻がつかえて抜くことができない。」
(3/4)
「八之丞サマといつて、一ツ橋のあとに直る人だつたが、大層、ワシがお気に入りで、十二までお附きだつた。その頃、隠居をするのは、一年かゝるが、親仁も、私を八之丞サマにつけて、出世させるつもりで願つたが、…」
#勝海舟
(2/4)
「それゆゑに人は、平生の修行され積んでおけば、事に臨んで決して不覚を取るものでない。剣術の奥意に達した人は、決して人に斬られることがないといふことは、実にその通りだ。おれも昔親父からこの事を聞いて、ひそかに疑つていたが、…」
#勝海舟
勝小吉21歳、二度目の家出エピソード2です。
三島宿で宿を求める小吉ですが「韮山様の御触れで一人旅は泊められない」と言われ、「水戸の播磨守の家来」のフリをしてゴネます。
「韮山様」は府中代官の江川太郎左衛門英毅さん、「水戸播磨守」は府中藩主の松平頼説さんと推測できます。
#夢酔独言
(4/4)
「おれの名は亀松という。養子に行って小吉となった。養家には祖母が一人、孫娘が一人。両親は亡くなった後で、残らず深川へ引き取り、おれの親父が世話をした。」
(4/4)
「兄弟は何事もなかったように帰って寝た。
翌朝、女中が着物をコタツへ掛けようとして、襦袢が切れているのを見付け、忠次の親父へ言いつけ、おれも番場町へ呼び出された。
忠之丞がおれ達三人を並べて、いろいろ意見を言ってくれた。
『今後はケンカをしません』
と、一筆書かされた。」
(4/4)
「それで、一軒の旗本の所へ、三四人もサウいふ出入の小旗本がある事がある。己は、十三から半年ほど、叔父の所へ厄介になつて居たから、よくそれを知つて居る。」