こちらのツイートにはセンシティブな表現が含まれている可能性があります。
大正時代に米騒動をきっかけにして生まれた簡易食堂で提供されていたご飯は、1合5勺の「丼飯」でした。
https://bit.ly/2IUFdIv
これは吉野家のどんぶり山盛りに相当します。つまり、「風立ちぬ」のような、吉野家なみの大きさのどんぶりが、大正時代には存在していたのです。
こちらのツイートにはセンシティブな表現が含まれている可能性があります。
日本橋の洋食の老舗「たいめいけん」の創業者、明治44年生まれの茂出木心護によると、「昔は柳麺と書いてラーメンと読ませた」そうです。
茂出木さんは洋食レストラン創業者ですが、実は東京でも古参の中華料理店で修行したのです。
こちらのツイートにはセンシティブな表現が含まれている可能性があります。
昭和8年の大東京うまいもの食べ歩き(白木正光)によると、丸ビルの花月食堂では支那そばは「柳(らう)めん」の名前で出されていました。
戦前の資料でラーメンを漢字表記している事例はこの2つのみ。「支那そば」表記が圧倒的に多いので、どうしてもラーメン表記の事例は少なくなります。
こちらのツイートにはセンシティブな表現が含まれている可能性があります。
ラーメンの名前を定着させたグランドホテルのラーメンは、ネギ、メンマ、チャーシュー、ナルトが入ったラーメン。
つまり、横浜あるいは東京からきた、支那そば=柳麺(ラーメン)だったのです。
こちらのツイートにはセンシティブな表現が含まれている可能性があります。
札幌でラーメンの名前を定着させたのは、「これが札幌ラーメンだ」によると昭和9年にオープンしたグランドホテルでした。
そこで出されていたラーメンは、竹家食堂の肉絲麺とは全く別のものでした。
こちらのツイートにはセンシティブな表現が含まれている可能性があります。
二代目の証言では、ラーメンと命名したのは横浜から来た広東人コックらが作った「柳麺」に対してでした。
一方「これが札幌ラーメンだ」では、山東省出身の王文彩が作る肉絲麺(ユーシミェン)に対し、ラーメン(拉麺)という名前がつけられます。