ソース焼きそばが生まれた直後、大正末から昭和のはじめの浅草の支那料理の代表的メニューを、作家の一瀬直行が「随筆東京・下町」において記録に残しています。
大正10年発行の「支那風俗上巻」(井上紅梅著)に、当時の上海料理の解説が載っているのを見つけました。焼きそばに関係する部分を抜き出します。
「最暗黒之東京」において車夫の食物として挙げられているもう一つの内臓食が焼鳥です。焼鳥とは「鳥の臓物」の蒲焼のことをいいます。
”イギリスの料理人はつねづねカレー粉を小麦粉と混ぜたルーを入れて、カレーにとろみをつけていた。シチューやキャセロール料理にとろみをつけるときに使われる手法だ。”
ヒロオカさんが言及されていますが、上海にもウスターソース文化があるそうです。そして、昭和初期の日本には上海から料理人が流れ込み、7,8割が上海の料理人だったと雑誌食道楽昭和三年九月号にあります。香港説に加え、上海説もあるかも?です
大正7年のお好み焼き屋の親父は、”「これでちやんと胡麻の油が使つてあるんですからね」”としたり顔。この記事は「お好み焼きの戦前史」の無料サンプルをダウンロードすると読めます。無料サンプルだけでも楽しめますので是非!(セールストーク) http://goo.gl/6gKGcx
これは俵型のじゃがいもコロッケ。コロッケの質感がすばらしく、実に美味しそうに見えます。新聞紙というのも、時代をしっかりとらえています。以前書きましたが、大正時代のお好み焼きの「容器」も新聞紙でした。
http://twilog.org/ksk18681912/date-180215 …