進学校的な空気に斜に構えて「アカデミックなあすなろはおらんのか」とか言ってみつつ、大手のシネマサロン部に「インテリぶったイケ好かない連中」と言ってみせたり、ある種の古典的な「サブカル」的自我がよく表出されていると言えますね。
整合性を取ろうとしてみるなら、単に「クラスにそういうやつ(映画趣味)がいない」というのを、独り言が多くて浮いている立場の肥大化した自我が語った結果が冒頭のアレという程度でよさそうな気はする。
いざ注文しようとしたら、「馬刺しが今なくなっちゃってて」と言われてガーンだな、出端を挫かれた、と士気がだだ下がりしたところでした。
『曹操孟徳正伝』の劉備は実に乱世の奸雄でよいのだが、問題として結局はごく脇役であり、脇役なのに局所的にクローズアップしてもらえているだけなので、脇役のおともまでは手が回らず関・張がただの劉備のおともの小物と化しているというのがある。劉備が関羽を持ち上げても、小物にしか見えない。
これは要するに、蒼天劉備を「反体制というイデオロギーで大衆その他を糾合するカリスマポピュリスト」扱いするという話になるわけで、それが「生活保守的勢力の孫呉の横やりで倒れる」という筋書きになるわけですが、定軍山での夏侯淵との問答なんかそこを象徴させるに相応しい箇所と言える。
こことかハンターのゴンかという感じですが、まあそもそも顔のフレーム自体かなり変わったよね。突然中学生に戻そうとして混乱が生じているとか何かか。(「アシがほとんど描いてましたがそれが抜けちゃったので」みたいな邪推が生じるレベル)
BUNGOがマンガBANG公開限度まで読み進んでしまったようだが、なんかちょっと前から身体の書き方がかなり変わったなと思っていたら、久々の瑛太の肉体がデッサンがどうこうでなく露骨に違ったので、これは何かあったんだなとなっているところ。
エースという座に耐えられる器とは、という大テーマの佳境なのだが、その佳境が特に大舞台で起こっているというほとではないというのは味か。