「小さな勝利に浮かれ、相手を罵ることしかできない者」
「小さな敗北にこだわらず、己の道を着実に歩を進める者」
その末路は明確であった。
孔明は蜀の行末を嘆き倒れ、仲達は己の人生に満足してこの世を去る。
そんな孔明の決意も気づかず、蜀軍の兵士たちは嘲り笑い挑発を繰り返すが、仲達は一切取り合わず、粛々と自己の優位を築き上げ、一方孔明は残された時をいたずらに失い、その命を削られ・・・
嘆く孔明、「仲達の策にハマった」ことに、敵軍の最高指揮官を捕らえる最大の機会を逸したことを悔しがる者が誰もおらず、仲達をあざ笑い、勝利に酔っている。
「もし関羽や趙雲が生きていたならどうしたであろう」
自軍に、ろくな人材がいない事実を否応なく突きつけられてしまったのだ。
逃げる仲達は、二股の道の片方に冠を投げ落とし、逆の道を走り、逃げおおせた。「誇りがあるなら冠を捨てなどしない」「もし捨てたのだとしたら、そこになんらかの意図があるのではないか」そんなことに気づかず、蜀の武将たちはまんまと仲達の策にハマったのだ。
その事情は、すでに示されていた。同時に、タイトルの意味も生きてきます。「進撃の巨人」、進撃――最初からあの物語は、「壁の世界」を守る物語ではなかったのです。壁の外に出る、「城壁という名の檻」を破壊する物語だったわけです。
ここらへん、古代ギリシャの城壁都市もそうでしたね。岩明均先生の「ヘウレーカ」の舞台となったシラクサも、最初は島部分のみでしたが、そこから街が発展し内陸部まで都市化され、この陸地部分の侵攻を防ぐために、アルキメデスの発明が用いられました。
カレー屋のカツカレーは、当然カレーは美味い。だが、活のクオリティはどうであろうか・・・やはりそこは餅は餅屋、とんかつ屋の方が美味かろう。だがしかし、とんかつ屋のカツカレーには、らっきょうがない・・・福神漬けすらない!!
昔から、考え続けている命題がある・・・「カツカレーは果たして、とんかつ屋で食うべきか、カレー屋で食うべきか」。カツ料理の一つと考えるか、カレーのバリエーションの一つと考えるべきか、未だもって、その答えは出ない・・・
「巨人の星」では、幼き頃から野球漬けで、年頃の子供らしい遊びもろくに得られなかった飛雄馬の苦悩が描かれますが、ある意味で、そういうところに、川崎先生はシンパシーを得たのかもしれませんね。