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「島田(虎之助)氏は、(勝海舟)先生に非常な才覚があるのを察して、こう助言した。
『剣術では、ただ一人の敵を相手にする。しかし君のような人は、人がやらないような物事を学び、大成できるだろう』
先生はそれより、蘭学を志した。」
#はやおき訳
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「やっと思い直して、あちこち物乞いして歩いたら、一日で米や麦や五升ばかりに、銭を百二、三十文もらえた。宿へ帰ると、亭主は親切な者で、その晩は泊めてくれた。」
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「その稽古場に、おれの頭(かしら)の石川右近将監の息子も来ていた。そやつはおれの禄高やらをよく知っているから、大勢の前で、
『手前の高はいくらだ。四十俵では小給者だ』
と言って笑いおるのが常だった。」
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(2/4)
「一緒に行ったら、小田原の城下の外れの横丁まで来た。漁師町に住む、喜平次という男だった。
おれを家へ入れて、女房や娘に、
『奉公に連れてきたから、かわいがってやれ』
と言った。二人ともあれこれ喋って、
『飯を食べなさい』
と言うから、食ってみたらきらず飯だ。」
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「その稽古場に、おれの頭(かしら)の石川右近将監の息子も来ていた。そやつはおれの禄高や何かをよく知っているから、大勢の前で、
『手前の高はいくらだ、四十俵ではさぞ困っているだろう』
と言って笑いおるのが常だった。」
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「祭の日になったから、夕方、番場町の男谷家へ行った。兄弟も待っていて、
『よく来た。今、源兵衛が湯へ行ったから、帰ったら出掛けよう』
と、支度をしていたら、源兵衛が帰ってきた。
それからケンカの打ち合わせをしながら、八幡へ行った。」
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「翌年正月、番場へ遊びに行ったら、新太郎と忠次郎が庭で、剣術を使っていた。おれにも使えと言うから、忠次郎と使った。出合い頭にひどく胴を切られて、気が遠くなってしまった。
それから二、三度使ったが、一本もぶつことができぬから悔しかった。」
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「その時は深川の油堀という所に居たが、庭に汐入の池があって、夏は毎日池にばかり入っていた。
八つ時には親父がお役所から帰るから、その前に池からあがり、知らん顔して遊んでいた。いつも池が濁っている訳を、親父が利平次に聞くのだが、利平は返事に困ったそうだ。」
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「『今晩の命の保証もできません』
と医者は言った。家中のやつらが泣いてばかりいるから、思いきり小言を言って、叩きちらしてやった。」
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