名作コント「立会演説会」や「当たり屋」が生まれた『コント55号の世界は笑う!』(昭和43年~45年)。フォンタクトはここでも「一人オーケストラ」を披露。@retoro_mode https://t.co/63NXWs5Mbv
@retoro_mode オールスターゲームでのホームラン競争は日米ともに風物詩となっているが、日本での球宴が初めて行われた昭和12年にも「長打競争」として存在。国内情勢を反映した「手榴弾投げ」や、ストラックアウトのような「二塁的抜き競争」まであった。@retoro_mode
一時期、エディ岩田はハナ肇とコミックジャズ路線で人気を二分するほどだったようだが、ほどなくモダンジャズに転向。
昭和10年。柳家金語楼は埼玉県川口市横曽根二本木(現在のアリオ川口近辺)にレコード工場設立を計画。レコードや付属品の製造を目的としていたが、、、頓挫したのだろうか、その後の形跡がない。
「宮の湯」ですかね。窓の中が覗けちゃったのでしょうか、、、🤔 https://t.co/KVaYP26s40
【昭和の広告】自動貯金箱 昭和31年
通話料金を徴収できる特殊簡易公衆電話(ピンク電話)が登場するのは昭和34年。それ以前の機械式は一般の黒電話に“自動貯金箱”を取り付けて利用された。しかし通話先は判別できないため、市内通話料金の10円で高額な市外通話する悪用が多発した。@retoro_mode
放送開始前は全26回と報じられていましたが、実際は全27回でした(各当日のテレビ欄で確認)。あと昭和44年3月1日は特番『世紀の祭典』で休止。@tvdrama_db
【昭和の野球】巨人唯一の外様・藤本監督の誕生 昭和10年
本品は11月9日の東鉄戦、10日の名鉄戦で配られたメンバー表。実業団相手の巡業で全勝を誓った巨人だったが、藤本監督擁する東鉄にこの日2度目の敗戦。その辛酸と藤本の手腕を高く評価した巨人は、翌年から監督に迎える。@retoro_mode #蒐集品
住宅地図で調査。昭和37年版ではまだ藤倉電線の運動場、昭和40年版では倉庫が建ち始めている。戦中~終戦直後の一時期は荒廃するも、その後再びグラウンドとしての役割を与えられていたのだ。ちょうどその頃、スポーツライターの越智正典氏がこの地を訪れ、“洲崎球場跡”と書かれた杭を目撃している。