人喰いのホオジロザメが漁師網に掛かり浅草で見世物になったという話の関連サメ記事が大正6年3月の『都新聞』に幾つかある(15日・16日・27日付)。魚河岸に来るサメは腹を割くとたいがい人間の手足が出るがいちいちは役所に届けずやり過ごしているそうだと、なかなかなサメ事情をサラリと書いていた。 
   本当にこんな話があったのか。大正6年7月4日・5日付『都新聞』が江戸城にあった名品を井上馨がどうせしめたか載せていた。骨董屋を集め買い取り強要を匂わせ、維新騒ぎで金のない彼らが控えめに値付けするや金策は明日までなと切り、無理だと言ってきたところでではワシがその値で買うとかっさらったw 
   明治41年11月末、12月初の長崎では「二代目一心斎旭玉」を名乗る一座が奇術の興行を行っていた。11月27日付・12月5日付『鎮西日報』#奇術史 
   大正6年当時、両国国技館での菊人形興行で使う菊は毎年2000円(4000万ぐらいか)をかけて渋谷で栽培していたという。国技館が大正6年11月の火災で焼失したため、新国技館をどうするかという大正7年1月5日付『都新聞』の記事中で菊人形の今後について言及されていた。