ということは、例えば『第二回水産博覧会出品目録第二冊』明治30年に長崎県の出品者として登場するこの長崎市本籠町の安達八三郎がマジシャンのジャグラー操一なのか!びっくりだわ。#奇術史 https://t.co/wH4tRSenvS 
   探して見つかる記事ではなく泣く(笑)大正7年7月7日付『都新聞』に日本のスワンボート史を埋める記事を見つけた。東京府立工芸学校でスワンと亀の舟を作り進水式を行ったとある。「これから各地の海水浴場では一種の玩具として歓迎されるであらう」とあり同校がどのような役割を果たしたか気になる。 
   若くしてただならぬ実入りを得ていた列車給仕はその収入が断たれたからといって質素な生活は送れまい。大正7年9月5日付『都新聞』、列車の乗客からくすねた金品で芸者と豪遊中に警察に捕まったこの列車給仕は当時21歳、ボーイになったのは大正元年という、10代から羽振り良くやってきた少年であった。 https://t.co/q6w0mGHNB9
   大正7年8月2日付『都新聞』、幽霊が出るから借家の家賃を安くしていたという事例がこうして活字で確認できることに妙な感動を覚えた(笑) https://t.co/YHULmG6MRZ
   大正7年10月20日付『都新聞』、「文展と絵葉書」との見出しながら、“文展物”にかぎらず、東京の街街でどのような #絵葉書 が誰に売れているのか、細かく伝えた記事で地域色が垣間見えて面白い。たとえば、神田ではひと昔前の美人芸妓の絵葉書が「支那留学生」を得意客としている等、気になる話が多い。 https://t.co/0wbWDvFsyz
   長崎では明治39年9月頃、市内の諏訪神社の近くにミルクホールが開店した。同9月30日付『東洋日の出新聞』。店主の山口氏は牧場をも経営していたようで、牛乳は自家で手配、そして官報や新聞、雑誌がただで読めるようにしていた(広告は10月24日付同紙)。正しく後期型の新聞縦覧所の特徴を備えている。 
   大正8年(1919)4月22日付『都新聞』で“猩々太郎”らしき足跡を見つけた。“猩々太郎”の絵葉書は見ていたが、なぜ“猩々”太郎なのか考えてもみなかった。「皮膚の色は飽迄白けれど頭髪は赤く」だからか。この年に20歳という年齢も辻褄が合う。